門《さんざえもん》も諫《いさ》めた。取り分けて叔父の吉田|五郎三郎《ごろうさぶろう》からは厳しく叱られたが、叔父や妹や家来どもの怒りも涙も心づかいも、情に狂っている若い馬一匹をひきとめる手綱《たづな》にはならなかった。馬は張り切った勢いで暴《あば》れまわった。暴馬《あれうま》は厩《うまや》に押しこめるよりほかはない。外記は支配|頭《がしら》の沙汰として、小普請組という厩に追い込まれることになった。
 家の面目と兄の未来とをしみじみ考えると、これだけのことを話すにも、お縫は涙がさきに立った。俯向《うつむ》いて一心に聴いているお時も、ただ無暗に悲しく情けなくなって、着物の膝のあたりが一面にぬれてしまうほどに熱い涙が止めどなしにこぼれた。
「まあ、どうしてそんな魔が魅《さ》したのでござりましょう」
 学問も出来、武芸も出来、情け深いのは親譲りで、義理も堅く、道理もわきまえている殿様が、廓《くるわ》の遊女に武士のたましいを打ち込んで、お上《かみ》の首尾を損じるなどとは、どう考えても思い付かないことであった。魔が魅したとでも言うよりほかはなかった。
 しかし今となっては、誰の力でもどうすることも出来ないのは判り切っていた。小普請入りといっても、必ず一生涯とばかりは限らない。本人の身持ちが改まって確かに見どころがあると決まれば、またお召出しとなるかも知れないというのをせめてもの頼みにして、お時はお縫に泣いて別れた。
 帰りぎわに用人の三左衛門にも逢った。彼は譜代《ふだい》の家来であった。五十以上の分別ありげな彼の顔にも、苦労の皺《しわ》がきざんでいるのがありありと見えた。
「いろいろ御苦労がございますそうで……」と、お時は涙を拭きながら挨拶した。
「お察し下さい」
 三左衛門はこう言ったばかりで、さすがに愚痴らしいことはなんにも口に出さなかったが、大家《たいけ》の用人として定めて目に余る苦労の重荷があろう。それを思うと、お時は胸がまたいっぱいになった。
 初めはまっすぐに帰る心づもりであったが、この話を聞いたお時は今にも藤枝のお家《いえ》が亡びるようにも感じられたので、彼女《かれ》は番町の屋敷を出ると、さらに市ヶ谷までとぼとぼ[#「とぼとぼ」に傍点]と辿《たど》って行った。
 叔父の吉田の屋敷は市ヶ谷にあった。彼は三百五十石で、藤枝にくらべると小身ではあるが、先代の外記の肉身の弟で、いまの外記が番入りをするまでは後見人として支配頭にも届け出してあった。父なき後は叔父を父と思えというこの時代の習わしによっても、外記の頭をもっとも強くおさえる力をもっている人は、この吉田の叔父よりほかになかった。思いあまったお時は念のために吉田に一度逢って、その料簡《りょうけん》をきいて置こうと思ったのである。
 奥様に恐る恐る目通りを願ったのであるが、ちょうど非番で屋敷に居合せた主人の五郎三郎はこころよく逢ってくれた。
 お時の主《しゅう》思いは五郎三郎もかねて知っているので、打ち明けていろいろの内輪話をしてくれた。今となっては仕方がない。それもおれが監督不行届きからで、お前たちにも面目ないと五郎三郎はしみじみと言った。しかし本人の性根さえ入れ替われば再び世に出る望みがないでもない。今度の不首尾に懲りて彼がきっと謹慎するようになれば、毒がかえって薬になるかも知れない。しばらくは其のままにして彼の行状《ぎょうじょう》を見張っているつもりだと、五郎三郎はまた言い聞かした。奥様もお時に同情して親切に慰めてくれた上に、帰る時には品々の土産物までくれた。有難いと悲しいとで、お時はここでも泣いて帰った。
 母が帰りの遅かったのも、土産物の多かったのも、こうした訳と初めて判って見ると、十吉も悠々と飯を食っている気にはなれなかった。食いかけの飯に湯をぶっかけて、夢中ですすり込んでしまった。膳を片付けてお時が炉の前にしょんぼりと坐ると、十吉はうす暗い行燈《あんどう》を持ち出して来た。
 母子は寂しい心持ちで行燈の火のちらちら[#「ちらちら」に傍点]と揺れるのを黙って見つめていた。日が暮れて東の風がだいぶ吹き出したらしい。軒にかけてある蕪菁《かぶら》の葉が乾いた紙を揉《も》むようにがさがさ[#「がさがさ」に傍点]と鳴った。
「風が出たようだね。昼間と夜とは陽気が大違いだ」と、お時は寒そうに肩をすくめて雨戸を閉めに出た。
 今夜は悪い風が吹くので、廓《くるわ》の騒ぎ唄が人の心をそそり立てるように、ここらまで近くながれて来た。暗い長い堤には駕籠屋の提灯が狐火のように宙に飛んでいた。その火のふい[#「ふい」に傍点]と消えて行くあたりに、廓の華やかな灯が一つに溶け合って、幾千人の恋の焔が天をこがすかとばかりに、闇夜の空をまぼろしのように紅《あか》くぼかしていた。
 殿様は今夜もあの灯の中に溺れているのではあるまいかと、お時は寒い夜風にひたいを吹かれながら、いつまでも廓の紅い空をじっと眺めていた。

     二

 お時が案じていた通り、外記は丁度そのころ吉原の駿河屋《するがや》という引手茶屋《ひきてぢゃや》に酔っていた。
 二階座敷の八畳の間《ま》は襖も窓も締め切って、大きい火鉢には炭火が青い舌を吐いていた。外の寒さを堰《せ》き止められて、なまあたたかく淀んだ空気のなかに、二つの燭台の紅い灯はさながら動かないもののように真っ直ぐにどんよりと燃え上がって、懐ろ手の外記がうしろにしている床《とこ》の間《ま》の山水の一軸をおぼろに照らしていた。青銅《からかね》のうす黒い花瓶の中から花心《しべ》もあらわに白く浮き出している梅の花に、廓の春の夜らしいやわらかい匂いが淡《あわ》くただよっていた。外記の前には盃台が置かれて、吸物椀や硯蓋《すずりぶた》が型の如くに列《なら》べてあった。
 相手になっているのは眉の痕のまだ青い女房で、口は軽くても行儀のいいのが、こうした稼業の女の誇りであった。茶色の紬《つむぎ》の薄い着物に黒い帯をしゃんと結んで、おとなしやかに控えていた。
「花魁《おいらん》ももうお見えでござりましょう。まずちっとお重ねなされまし」と、彼女が銚子をとろうとすると、外記は笑いながら頭《かぶり》をふった。
「知っての通り、おれは余り酒は飲まないのだから、まあ堪忍してくれ。このうえ酔ったらもう動けないかも知れない」
 男には惜しいような外記の白い頬には、うすい紅《べに》が流れていた。
「よろしゅうござります。殿様が動けなくおなり遊ばしたら、新造《しんぞう》衆が抱いて行って進ぜましょう。たまにはそれも面白うござります」と、女房は口に手を当てて同じように笑っていた。
「いや、まだよいよい[#「よいよい」に傍点]にはなりたくない」と、外記も同じように笑っていた。
「それにしても花魁の遅いこと、もう一度お迎いにやりましょう」
 女房は会釈《えしゃく》して階子《はしご》を軽く降りて行った。
「ああ、そんなに急《せ》き立てるには及ばない」と、外記がうしろから声をかけた時には、女房の姿はもう見えなかった。
 実際そんなに急ぐには及ばない。急ぐと思われては茶屋の女房の手前、さすがにきまりが悪いようにも外記は思った。きのうは具足《ぐそく》開きの祝儀というので、よんどころなしに窮屈な一日を屋敷に暮らしたが、灯のつくのを待ちかねて、彼は吉原へ駕籠を飛ばした。きょうも流《なが》して午《ひる》過ぎに茶屋へかえって来た。この場合、ふた晩つづけて屋敷を明けては、用人の意見、叔父の叱言《こごと》、それが随分うるさいと思ったので、彼は日の暮れるまでにひとまず帰ろうとしたのであった。
 彼は少しく酔っていたので、茶屋から駕籠にゆられながら快《い》い心持ちにうとうと[#「うとうと」に傍点]と眠って行くと、夢かうつつか、温かい柔かい手が蛇のように彼の頸《くび》にからみ付いた。女のなめらかな髪の毛が彼の頬をなでた。白粉の匂いがむせるように鼻や口をついた。眼の大きい、眉の力《りき》んだ女の顔がありありと眼の前にうき出した。
 と思う途端に、駕籠の先棒《さきぼう》がだしぬけに頓狂な声で、「おい、この駕籠は滅法界《めっぽうかい》に重くなったぜ」と、呶鳴った。
 外記ははっ[#「はっ」に傍点]と正気にかえった。そうして、駕籠が重くなったということを何かの意味があるように深く考えた。
 今までは自分一人が乗っていた。そこへまぼろしのように女が現われて来た。駕籠が急に重くなった。眼に見えない女のたましいが何処までも自分の後を追って来るのではあるまいか。
「なんの、ばかばかしい。なんとか名を付けて重《おも》た増《ま》しでも取ろうとするのは駕籠屋の癖だ」と、外記は直ぐに思い直して笑った。
 しかしそれが動機となって、彼は再び吉原が恋しくなった。駕籠屋の言うのは嘘と知りつつも、彼は無理にそれを本当にして、もしや女の身に変った事でも起った暗示《しらせ》ではあるまいかなどと自分勝手の理屈をこしらえて見たりした。そうして、自分でわざと不安の種を作って、このままには捨てて置かれないように苛々《いらいら》して見たりした。駕籠がだんだんに吉原から遠くなって行くのが、何だか心さびしいように思われてならなかった。
「ここはどこだ」と、彼は駕籠の中から声をかけた。
「山下《やました》でございます」
 まだ上野か、と外記は案外に捗《はか》の行かないのを不思議に思った。と同時に、これから屋敷へ帰るよりも、吉原へ引っ返した方が早いというような、意味のわからない理屈が彼の胸にふとうかんだ。
「これ、駕籠を戻せ」
「へえ、どちらへ……」
「よし原へ……」と、彼は思い切って言った。
 駕籠はふたたび大門《おおもん》をくぐって茶屋の女房を面食らわした。茶屋では直ぐに大菱屋へ綾衣を仕舞《しま》いにやった。そんな訳であるから、さっき帰ってからまだ二※[#「日+向」、第3水準1−85−25]《ふたとき》とは過ぎていないのに、女の迎いを急《いそ》がせる。むこうは稼業だから口へ出してこそ言わないが、殿様もあんまりきついのぼせ方だと茶屋の女房たちに蔭で笑われるのも、さすがに恥かしいように思われた。
 表は次第に賑やかになって、灯の影の明るい仲の町には人の跫音《あしおと》が忙がしくきこえた。誰を呼ぶのか、女の甲走《かんばし》った声もおちこちにひびいた。いなせな地廻りのそそり節《ぶし》もきこえた。軽い鼓《つづみ》の調べや重い鉄棒《かなぼう》の音や、それもこれも一つになって、人をそそり立てる廓の夜の気分をだんだんに作って来た。外記も落ち着いてはいられないような浮かれ心になった。
 急ぐには及ばないと思いながらも、彼の腰は次第に浮いて来た。手酌で一杯飲んで見たが、まだ落ち着いてはいられないので、ふらふらと起《た》って障子をあけると、まだ宵ながら仲の町には黒い人影がつながって動いていた。松が取れてもやっぱり正月だと、外記はいよいよ春めいた心持ちになった。酒の酔いが一度に発したように、総身《そうみ》がむずがゆくほてって来た。
 その混雑のなかを押し分けて、箱提灯《はこぢょうちん》がゆらりゆらりと往ったり来たりしているのが外記の眼についた。彼は提灯の紋どころを一々《いちいち》にすかして視た。足かけ三年この廓に入りびたっていても、いわゆる通人《つうじん》にはとても成り得そうもない外記は、そこらに迷っている提灯の紋をうかがっても、鶴の丸は何屋の誰だか、かたばみはどこの何という女だか、一向に見分けが付かなかった。しかし綾衣の紋が下がり藤であるということだけは、確かに知っていた。
 自分が上野まで往復している間に、ほかの客が来たのではあるまいかとも考えた。自分は今夜来ない筈になっていたのであるから、先客に座敷を占められても苦情はいえない。しかし馴染みの客が茶屋に来ているのに、今まで迎いに来ないという法はない。
「今夜の客というのは侍か町人か、どんな奴だろう」と、外記は軽い妬《ねた》みをおぼえた。
 さっきから女房が再び顔を見せないのは、何か向うにごたごた[#「ごたごた」に傍点]が起ったのではあるま
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