泣いて帰った。
 母が帰りの遅かったのも、土産物の多かったのも、こうした訳と初めて判って見ると、十吉も悠々と飯を食っている気にはなれなかった。食いかけの飯に湯をぶっかけて、夢中ですすり込んでしまった。膳を片付けてお時が炉の前にしょんぼりと坐ると、十吉はうす暗い行燈《あんどう》を持ち出して来た。
 母子は寂しい心持ちで行燈の火のちらちら[#「ちらちら」に傍点]と揺れるのを黙って見つめていた。日が暮れて東の風がだいぶ吹き出したらしい。軒にかけてある蕪菁《かぶら》の葉が乾いた紙を揉《も》むようにがさがさ[#「がさがさ」に傍点]と鳴った。
「風が出たようだね。昼間と夜とは陽気が大違いだ」と、お時は寒そうに肩をすくめて雨戸を閉めに出た。
 今夜は悪い風が吹くので、廓《くるわ》の騒ぎ唄が人の心をそそり立てるように、ここらまで近くながれて来た。暗い長い堤には駕籠屋の提灯が狐火のように宙に飛んでいた。その火のふい[#「ふい」に傍点]と消えて行くあたりに、廓の華やかな灯が一つに溶け合って、幾千人の恋の焔が天をこがすかとばかりに、闇夜の空をまぼろしのように紅《あか》くぼかしていた。
 殿様は今夜もあの灯の
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