黙って顔を見合せた。浄閑寺の鉦がまたきこえた。
綾衣は起って仏壇の燈明をかき立てると、白地に撫子《なでしこ》を大きく染め出した艶《はで》な浴衣が裾の方から消えて、痩せた肩や細った腰が影のようにほの白く浮いて見えた。仏壇の花生けには蓮の花が供えてあった。綾衣はそのひと枝を押し戴いてとって、重なり合った花びらをしずかにむしり取ると、匂いのある白い花は彼女の袖に触れてほろほろ[#「ほろほろ」に傍点]とこぼれて、うす暗い畳の上に雪を敷いた。
外記は無言で笑った。
星は隠れていよいよ暗い夜になった。お米と十吉は帰って来た。途中で折りおりに稲妻が飛ぶので、お米は怖がっていた。
内へはいって二人は更に怖いものを見せられた。蒼い蚊帳のなかに、外記は腹を切っていた。綾衣は喉を突いていた。男も女も書置きらしいものは一通も残していなかった。多くの場合、書置きというたぐいのものは、この世に未練のある者が亡き後をかんがえて愚痴を書き残すか、あるいはこの世に罪のある者が詫び状がわりに書いて行くのであるが、二人はこの世に未練はなかった。また懺悔《ざんげ》するような罪もないと信じていた。褒めようが笑おうが、それは世間の人の心まかせで、二人の心は二人だけが知っていればいいと思っていたらしい。
お時もやがて帰って来た。かねて彼女をおびやかしていた悪夢がいよいよ現実となったのを知った時に、お時は正体もなく泣きくずれた。死んだ二人の唇に微かな笑みを含んでいるのを見いだしたときに、彼女はいよいよ堪まらなくなって声をあげて泣き叫んだ。
外記の死骸は藤枝家に引き取られたが、綾衣の死骸は浄閑寺に埋められた。新造の綾浪も綾鶴も一応の吟味を受けたが、綾衣の駈落ちや心中に就いて自分たちはいっさい知らないと申し立てた。禿《かむろ》の満野も調べられたが、七つの彼女は勿論なんにも知ろう筈はなかった。調べられた時に、彼女はなんにも答えずに、姉さまが恋しいと泣き出して、居あわした人びとの眼をうるませた。
江戸時代にも五百石の旗本と廓の遊女との相対死には珍らしかった。五百石は五千石と誇張されて、その噂はいよいよ高くなった。無名の詩人が二人の恋を唄い出して、その声は江戸の町々に広く伝えられた。
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※[#歌記号、1−3−28]君と寝やろか、五千石取ろか。なんの五千石、君と寝よ。
[#ここで字下げ終わり]
底本:「江戸情話集」光文社時代小説文庫、光文社
1993(平成5)年12月20日初版1刷発行
入力:tatsuki
校正:かとうかおり
2000年6月15日公開
2008年10月4日修正
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