相当の婿を取れば、藤枝の家にも瑕《きず》が付かず、親類縁者一同も世間に恥をさらさずに済むであろう。殺される甥は不憫であるが、家には替えられない、親類縁者の大勢《おおぜい》には替えられないと、こう決心した五郎三郎の眼からは煮え湯のような涙がこぼれた。鬼のような自分の心が情けなくも思われた。
 きょうは盂蘭盆というので、五郎三郎は赤坂の菩提寺に参詣した。墓場には昼でも虫が鳴いていた。彼は先祖代々の墓に香花《こうばな》や水をたむけて、苔の蒸した石にむかって甥を殺す余儀ない事情を訴えて、その足ですぐに番町へ廻って来たのである。彼は初めに甥を説得して詰め腹を切らせようかとも考えたが、もし不承知で四の五のいうと却って面倒である。いっそ不意に斬り殺してしまおうと思案を変えて、なにげない眼は碁盤の上に配っていながらも、張り詰めた心は相手の隙《すき》ばかりを狙っていた。
 叔父にも思惑がある。甥にも思う事がある。二人の打つ石はしどろ[#「しどろ」に傍点]であった。そばに観ている者があっては気が散っていけないと言って、五郎三郎は何かの邪魔になるお縫や三左衛門を追い払ってしまった。力のない石の音はしずかな部屋のなかに暫くひびいていた。
「これはだいぶ暑くなって来た」
 五郎三郎は羽織を脱いだ。その途端に、自分の膝のそばに引き寄せてある長い刀の柄《つか》に眼が触れると、彼はぞっ[#「ぞっ」に傍点]とした。これで眼の前にいる肉親の甥を切るのかと思うと、彼の胸は俄かに大きい波を打って、盤の上はぼう[#「ぼう」に傍点]と暗くなった。石を取る指さきもおのずと顫《ふる》われた。
 殺すのも余り無慈悲だ、もう一度考え直して見ようと、五郎三郎は張り詰めた心が少しゆるんだ。彼は手を鳴らしてお縫を呼んで、もう一杯くれと茶を所望した。それから手拭を取り出して気味の悪い腋の下の冷汗を拭いた。
 そのあいだ、外記はうっとりとした眼をあげて黙って天井を眺めていた。何かに気を取られて、魂はうつろになっているような其のとろけた眼づかいが、五郎三郎の気に入らなかった。こいつ、よくよく性根を女に奪われているのだと思うと、慈悲も情けも無駄なように考えられて、一旦ゆるんだこぶしの肉がまた動いて来た。
 甥を生かすか殺すかに迷っている叔父は、盤の上の生き死になどには到底もう眼がとどかなくなった。彼の打っている石は乱れた。
「叔父さま。それでは違います」と、外記は眠そうな声で注意した。
「何が違う」と、五郎三郎も眼が醒めたように盤を睨んだ。
「お前さまのこの石はもう死んでおります」
「馬鹿を申すな。なんでこれが死ぬものか」
「でも、これは……」と、外記も行きがかりで争った。
「ええ、卑怯なことを申すな」
 こう言い募って来るうちに、五郎三郎の血はのぼって来た。機会は今だ、と心の奥からささやかれて、彼は再び盤を指した。
「これ、よく見ろ。この石はこう切ったのだ」
 切るという自分のことばで、自分にはずみを付けて、五郎三郎の手が刀の柄にかかったかと思うと彼は抜き撃ちに切り付けた。外記も武芸の心得はある。躱《かわ》したからだに初太刀《しょだち》は空を撃たせて、二度目の切っさきは碁盤で受け留めた。茶を持って来たお縫は驚いて声を立てた。三左衛門も駈けつけて来た。
 五郎三郎ももう隠す訳にも行かなくなって、盤の上の一目二目の争いから、分別盛りの侍がおとなげない刃物|三昧《ざんまい》をしたと思うな、家のため、親類縁者のためには、どうしても甥一人を殺すよりほかはないのだという自分の決心を明かして聞かせた。そうして外記にむかって、この上は尋常に腹を切れ、叔父が介錯してやると迫った。
 外記はまだ命が惜しいと言った。お手討ちも詰め腹も真平御免《まっぴらごめん》だとことわった。叔父は卑怯な奴だといきまいた。甥は卑怯でないと冷やかに答えた。叔父と甥との考えはまるで食い違っていた。
 叔父のいう理屈は、ひとつも外記の胸に落ちなかった。彼はむしろ腹立たしくなった。手討ちにするの、腹を切れのと、ひとの命を自分の勝手に取扱おうとするのが既に無理な注文ではないか。自分の命には自分という持ち主がある。家のためや親類縁者のためや、そうした事情のいけにえとして、罪もない自分のいのちを安価に売り買いされるのは自分の堪え得ることでない。それを拒《こば》むのは決して卑怯でないと外記は思った。彼はどうしても死ぬのは忌《いや》だと言い切った。
 お縫や三左衛門にも外記の料簡は理解し得られなかった。しかし、かれらもさすがに兄や主人を殺そうとは思いも付かないので、泣いて縋って五郎三郎をさえぎった。二人はまつわられて五郎三郎も持て余した。
「では、きょうのところはともかくも免《ゆる》して置くから、よく分別して見ろ。卑怯者め」
 ふた口目には卑怯呼
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