申す通り、お前さまのお持ち物でもお前さまの御自由には相成りませぬと言い切った。その鎧は御先祖さまが慶長元和|度々《どど》の戦場に敵の血をそそいだ名誉のお形見で、お家《いえ》に取っては何物にも替え難い宝でござる。藤枝五百石のお家は、その鎧と太刀さきの賜物《たまもの》であるということをお忘れなされたかと、彼は叱るように言った。
もうこうなったら主人でも容赦はない。手討ちになろうと勘当されようと、言うだけのことは言わなければならないと彼はあわれにも覚悟の胸を決めていた。
外記は白い歯を見せて笑い出した。
「慶長元和の血なまぐさい世の中と、太平百余年の今日《こんにち》とは、世のありさまも違えば人の心入れも違うぞ。鎧刀を武士の魂などと自慢する時代はもう過ぎた。おれも以前は武芸に凝り固まって、やれ剣術の柔術のと脂汗を流して苦しんだものだが、今さら思えば馬鹿であった。歴々の武士が竹刀《しない》の持ちようも知らず、弓の引きようも知らず、それでも立派にお役を勤めて家繁昌する世の中に、なんの役にも立たない鎧や刀は、五月の節句の飾り具足や菖蒲刀《しょうぶがたな》も同様だ。家重代の宝でもいい値に引き取る者があれば、なんどきでも売り放すぞ」
鎧は面当てらしく家来の眼の前にがらりと投げ出された。
三左衛門はあわててその鎧を引き寄せて押し戴くようにして自分の膝の上に抱きあげたが、勿体ないと情けないとが一つにもつれて、卯花縅《うのはなおどし》の袖の糸に彼の涙の痕がにじんだ。
お縫がはいって来て、市ヶ谷の叔父さまがお出《い》でになりましたと言った。外記は又かと顔をしかめたが、今さら留守ともいえない。病気ともいえない。まさか逃げることもできないと思っているうちに、背の高い叔父の姿がもう眼の前に現われた。
吉田五郎三郎は四十前後で、あさ黒い頬のあたりはやや寂しいが、鼻の高い、口もとのきっと引き締まった、さすがに争われない肉縁の証拠を外記とよく似た男らしい顔にもっていた。質素な家風と見え、鼠の狭布《さよみ》の薄羽織に短い袴を穿いて、長い刀を手に持っていた。
「朝夕は余ほど凌《しの》ぎよくなったが、日のなかはまだ残暑が強い。一同変ることもないか」
五郎三郎は機嫌よくみんなに挨拶して、腰から白扇《はくせん》を取り出してはらはら[#「はらはら」に傍点]と使った。庭には薄い日がどんよりとさしていた。低い四目垣《よつめがき》にかぶさっている萩の葉の軽いそよぎにも、どこにか冷たい秋風のかよっているのが知られて、大きいとんぼが縁のさきへ流れるように飛んで来た。
お縫が運んで来た茶を飲みながら、五郎三郎は世間話などを二つ三つした上で、ふだんから好きな碁の話に移った。
「おれもこのあいだは御用繁多であったが、幸い今日は非番だ。といって、屋敷に唯つくねん[#「つくねん」に傍点]としていても退屈だから、久し振りでひと勝負しようかとわざわざ出かけて来た。どうだ、外記。この頃は少しは強くなったか。三左衛門、盤を持ってまいれ」
三左衛門はすぐに碁盤を持ち出して来たが、外記はとてもそんな悠長な落ち着いた気分にはなれなかった。
「わたくしはこのごろ暫く盤にむかいませんので、とても叔父さまのお相手にはなれませぬ。どうかきょうは御免を……」
「見れば顔色もよくないようだが、気分でもすぐれぬのか」
「いえ、別に病気という訳でもござりませぬが……」
「病気でなくば一局まいれ。かえって暑さを忘れるものだ」
叔父はもう石を取り始めたので、外記も断わり切れなくなって、いやいやながら盤にむかった。五郎三郎も面白づくで碁を打っているのではなかった。いやいや相手になっている外記よりも、もっと忌《いや》な、苦しい、悲しい、切《せつ》ない思いを胸の奥に畳み込んで、無理に悠長らしい顔をつくっているのであった。
妹や家来たちが恐れていた通り、外記はいよいよ募る放埒のたたりで、近いうちにかの甲府勝手を仰せ付けられることになった。本人はまだ知らないが、支配頭から叔父にはもう内達《ないたつ》があった。この一家の上を掩《おお》っていた黒雲から、とうとう怖ろしい雷《らい》が落ちた。こうなることは内々予期していないでもなかったが、それを聞いた五郎三郎は今更のようにがっかりした。もうどうすることも出来ない。
藤枝の家はつぶされたも同然である。甥の身の上は自業自得《じごうじとく》の因果で是非ないとしても、自分の宗家《そうけ》たる藤枝の家をこのまま亡ぼしてしまっては、先祖に対しても申し訳がない、死んだ兄に対しても申し訳がない。五郎三郎は二日ほども胸を痛めた末に、思えばむごい、しかしこの時代の武士としてはまことにやむを得ない或る非常手段を考え出した。
彼は外記を自滅させようと覚悟した。表向きは頓死と披露して、妹のお縫に
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