記はとうとう大菱屋の二階を堰かれてしまった。
この場合に外記のために働く者は中間の角助のほかはなかった。彼は主人の内意を受けて、仲の町の茶屋へ行ってうまく口説いた。そうして、外記から綾衣に宛てた手紙を届けてくれと頼んだ。頼まれた茶屋では迷惑したが、断わるにもことわり切れないで、ともかくも其の手紙をそっと綾衣に取次いだ。綾衣からも返事があった。
今夜の雨を幸いに、外記はおはぐろ溝《どぶ》の外に待っていた。宵の口の混雑にまぎれて、綾衣は櫺子《れんじ》窓を破って屋根伝いに抜け出した。外記は用意して来た蓑笠に二人の姿を忍ばせて、女を曳いて日本堤を北へ、箕輪の里に一旦の隠れ家を求めに来たのであった。
この話を聴いて、お時は困った事ができたと吐胸《とむね》をついた。困ったとは思いながらも、今さら殿様を責める気にもなれなかった。綾衣を憎む気にもなれなかった。かえって何だか惨《いじ》らしいような気にもなって、二人を列べて見ている彼女の眼がおのずとうるんで来た。
五百石の殿様と吉原の花魁がこの雨の中を徒跣足《かちはだし》で落ちて来るとは、よくよく思い合っていればこそで、ただひと口に無分別のふしだら[#「ふしだら」に傍点]のと悪くばかり言う訳にもいくまい。二人の身になって見たらば、又どんなに悲しい切ない事情が絡《から》んでいるかも知れない。お家《いえ》も勿論大切ではあるが、こうまで思い詰めている若い二人を無理に引き裂くのは、小雀の眼に針を刺すという世の諺《ことわざ》よりも、猶更むごい痛々しい仕方ではあるまいか。
困ったことではあるが、もう仕方がない。無理もない。後はともあれ、差しあたってはお世話するよりほかはあるまいと、お時も迷わずに思案を決めた。
「よろしゅうござります。綾衣さまは確かにお預かり申しました。しかし殿様はお屋敷へお帰り下さりませ。お判りになりましたか」
「むむ。おれまでが厄介になろうとは思わない。女だけをなにぶん頼むぞ」
「かしこまりました」
外の雨は颯《さっ》としぶいて、古い雨戸はがたがた[#「がたがた」に傍点]と揺れた。
「湿《ぬ》れて来たせいか寒くなった。もう少し炉をくべてくれ」と、外記は肩をすくめて言った。
「ほんに気がつかずに居りました。お二人ともそのぬれた召し物ではお冷えなさりましょう。まずお召し替えをなされませ」
お時は戸棚の古葛籠《ふるつづら》の底を探したが、小柄の十吉の着物では間に合いそうもないので、彼女は二枚の女物を引き出した。縞の銘仙の一枚は、外記が五つの袴着《はかまぎ》の祝儀の時にお屋敷から新しくこしらえて頂いたのを、物持ちのいい彼女は丹念に保存して置いたのである。もう一枚の紬《つむぎ》は奥様のお形見として頂戴したもので、いずれも薄綿であった。
「女物ではござりますが、奥様のお形見でござります」と、彼女は外記に紬を着せてやった。綾衣は銘仙を羽織った。
母の形見に手を通して、外記も懐かしいような寂しいような、なんだか暗い心持ちになった。そのお形見がこういう時の役に立とうとは、お時も夢にも思わなかった。彼女は急に悲しくなって、訳もなしに涙がほろほろ[#「ほろほろ」に傍点]とこぼれた。
六
外記は明くる朝早く帰った。帰るときにも綾衣のことをくれぐれも頼んで行った。
頼まれたお時おやこの気苦労はひと通りでなかった。それも普通の人でない、くるわの駈落ち者である。しかも眼と鼻のあいだに廓を控えているここらあたりに、その駈落ち者をかくまって置くのは、燈台もと暗しとはいえ、随分あやうい仕事であった。それでも母子《おやこ》は大胆にその役目を果たそうとした。
狭い家ではあるが奥に四畳半の納戸《なんど》がある。お時も綾衣に因果をふくめて、そのひと間の内に封じ込めてしまった。昼は一歩も外へ出ないで、幽霊のように夜を待って綾衣はそっと炉のそばへ這い出して来た。外記も夜道を忍んで時どきに逢いに来たが、箕輪田圃で蛍を追う子供たちにも怪しまれないのは僥倖《さいわい》であった。
それが七、八日はまず無事にすごしたが、こういううしろ暗いことをしているのは、根が正直の母子に取って堪えられない苦痛であった。かれらは急に世間が怖ろしくなった。物の音にも胸をはずませて、おびえた心持ちで日を送ることが多かった。かれらは明るい夏の日の光りを見るのを恐れて、いつまでもこの暗い天気がつづけばいいと祈っているようになった。
それに付けても、その後の廓の模様が知りたかった。馬道に住んでいる廓まわりの女髪結の一人を、お時はかねて識っているのを幸いに、これを訪ねてよそながら様子を探ろうと、彼女は雨の小やみを待って午《ひる》過ぎから出て行った。
空を染めている薄墨の色も少し剥《は》げて、ちぎれて迷う雲の間から、時どき思い出した
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