らそれへと毎日同じことがいろいろに考えられた。そのうちでもこの頃のお時の胸をいっぱいに埋めているのは、番町の殿様の問題であった。箕輪と山の手と懸け離れていては、そうたびたびたずねて行く訳にはいかない。たとい近いとしても、うるさく出這入りはできない。ただ、よそながら案じているばかりである。
先月そっとお屋敷をたずねた時にも、殿様はやはりお留守であった。お嬢さまの顔はいよいよ窶《やつ》れていた。ことしになっても殿様の放埒はちっともやまないとのことであった。お時は又もや涙ぐんでとぼとぼ[#「とぼとぼ」に傍点]と帰って来た。
自分の力ではどうにもならないとは知りながらも、自然の成り行きに任して置くということは考えるさえも怖ろしかった。
万々一いよいよ甲府勝手でも仰せ付けられたら、藤枝のお家《いえ》はつぶれたも同様である。お時は自分の乳をあげた若様がそんな不心得な人間になったということは、なんだか自分にも重い責任があるようで、心苦しくってならなかった。
今夜もそれを繰り返していると、十吉は退屈そうに煤《すす》けた天井を仰いでいた眼を表の方に向けて、雨の音に耳を引っ立てた。
「おお、降る、降る。まるで嵐のようだ」
なるほど、雨は土砂降りであった。風も少しまじって来たと見えて、庭の若葉が掻き廻されるようにざわめいていた。蛙《かわず》もさすがに鳴く音を止めてしまった。
跫音《あしおと》は雨のひびきに消されて聞えなかったが、人が門口《かどぐち》に近寄ったらしい。雨戸を叩く音が低くきこえた。母子は眼を見合せた。
「この降るのに誰だろう」
十吉は起って縁さきに出た。戸を叩く音は又きこえた。
「あい、あい。今あける」
きしむ雨戸をこじあけて覗くと、闇のなかには竹の子笠をかぶって蓑《みの》を着た人が突っ立っていた。人はしずくの滴《た》れる笠をぬぐと、行燈を持って出たお時がまず驚かされた。それは今も胸に描いていた番町の殿様であった。
十吉もやっと気がついてびっくりした。なにしろこちらへと慌てて招じ入れると、外記は更にうしろを見返って無言で招いた。
今まで見いださなかったが、暗い雨の中にはまだ一人の蓑と笠とが忍んでいた。ぬれた蓑の袖からは溶けるような紅の色がこぼれ出していた。
「お前さまもどうぞこちらへ」と、誰だか知らないがお時は取りあえず会釈した。十吉は急いで盥《たらい》の水を持って来た。二人は蓑をぬいで足を洗った。
外記は浅黄色の単衣《ひとえもの》の裾を高くからげて、大小を落し差しにしていた。女は緋の長襦袢の上に黒ずんだ縮緬を端折《はしょ》って、水色の細紐《しごき》を結んでいた。顔を包むためか、白い手拭を吹き流しにかぶって手に笠を持っていた。二人とも素足であった。女の白い脛《はぎ》に紅い襦袢がぬれてねばり着いているのは媚《なまめ》かしいというよりも痛々しかった。
この雨の夜に殿様と連れ立って来た美しい女が誰であるかは、お時にもたいてい想像されたので、彼女は十吉に眼くばせして雨戸をぴったり閉めさせた。男はすぐに炉のそばへ寄って来て、ぬれた袂を乾かした。女は手拭をとって、鬢《びん》のしずくが玉と散るのを払ったりしていた。
「殿様。いらっしゃりませ」
母子がうやうやしく手をついて、ひたいを畳に摺り付けるのを、外記は手をあげて制した。
「いや、その挨拶はやめてくれ。乳母はおれの留守にたびたび来たそうだから、大抵の話は聴いているだろう。くどくは言わない。当分この女を預かってくれ」
言う尾について女も軽く会釈した。
「わたしは大菱屋の綾衣でおざんす。お前がたの頼もしいことは、主《ぬし》からもかねて承わっていやんした。どうぞよろしく頼みんす」
お時は挨拶に困って、ただ「はい、はい」と、幾たびか頭を下げていた。十吉は呆気《あっけ》に取られて、透き通るように白い女の顔をぼんやりと眺めていた。
箕輪田圃の雨にぬれて、この百姓家へ不意に押し掛けて来た二人は、言うまでもなく駈落ち者であった。大菱屋では綾衣の客はますます落ちる。外記はしげしげかよって来る。二人がだんだんに行き詰まって来るのはもう眼に見えているので、はらはら[#「はらはら」に傍点]しながら見張っていると、綾衣が新造の綾浪に頼んで蒔絵《まきえ》の櫛と笄《こうがい》とを質に入れさせた。それは外記のためであるということが判ったので、かねて機会を待っていた大菱屋ではこれを究竟《くっきょう》の口実にして、すぐに茶屋に通じて外記を堰《せ》いた。
茶屋は年来の馴染みであるから一応は抗議を申し込むべきであったが、これも二人が昨今の突き詰めた有様に不安を懐《いだ》いていたので、当分は足をお抜きになった方がお二人さんのお為でござりましょうと、外記にも意見した。もうこの上は理屈をいっても仕方がない。外
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