のない立て膝をしてはいなかったが、疲れたからだを少しく斜《はす》にして、桐の手あぶりの柔かいふちへ白い指さきを逆《さか》むきに突いたまま、見るともなしに向うの小さい床《とこ》の間《ま》を見入っていた。床には一面の琴が立ててあった。なまめかしい緋縮緬の胴抜きの部屋着は、その襟から抜け出した白い頸筋をひとしお白く見せて、ゆるく結んだ水色のしごきのはしは、崩れかかった膝の上にしどけなく流れていた。
入り口の六畳には新造や禿《かむろ》が長火鉢を取り巻いて、竹邑《たけむら》の巻煎餅《まきせんべい》か何かをかじりながら、さっきまで他愛もなく笑ってしゃべっていたが、金龍山の四つの鐘が雪に沈んできこえる頃からそろそろ鎮まって、禿の声はもう寝息と変った。新造たちもうたた寝でもしているらしかった。
入り口と座敷とに挟まれた綾衣の居間は、昼でも陰気で隅々は薄暗かった。一旦ちらちらと落ちて来てまた降りやんだと思った雪が、とうとう本降りになって来た。奥二階の夕雛《ゆうひな》の座敷には居続けの客があるらしく、夕雛が自慢の琴の音が静かな二階じゅうに冴えてきこえた。しかしその夕雛がほんとうに思っている人は、このごろ遠い上方《かみがた》へさすらいの身となっていることを考えると、その指さきから弾き出される優しい爪音にも、悲しいやるせない女の恨みが籠っているようで、じっと聴いている客は、馬鹿らしくもあり、また憎らしくも思われた。
自分もいつか一度は夕雛さんと同じような悲しい目に逢うのではあるまいか。綾衣はそんなことも考えずにはいられなかった。
六つの時に禿に売られて来て、十六の春から店へ出た。そうして、ことしも二十二の正月を廓で迎えた。苦海《くがい》十年の波を半分以上も泳ぎ越すうちに、あとにもさきにもたった一度の恋をした相手は立派な武士《さむらい》である。五百石の旗本である。どんなに両方が慕っても泣いてもこがれても、吉原の遊女が天下のお旗本の奥様になれないのは、誰が決めたか知らないが此の世のむごい掟《おきて》であった。旗本には限らない、そうじて遊女や芸妓《げいしゃ》と武士との間には、越えることのできない関が据えられていた。人は武士《ぶし》、なぜ傾城に忌《いや》がられるかというと、一つには末の目当てがないからであった。恋はもちろん打算的から成り立つものではないが、しょせん添われぬと決まっている人と真剣の恋をするほど盲目な女は廓にも少ない。遊女が恋の相手を武士に求めなかったのも自然の道理であった。綾衣もおととしの秋まではそう思っていた。
それがどうしてこうなったか、自分にも夢のようでよく判らないが、その晩のありさまはきのうのことのようにまざまざ[#「まざまざ」に傍点]と眼に残っている。
たなばた祭りの笹の葉をそよそよと吹きわたる夕暮れの風の色から、廓にも物悲しい秋のすがたが白じろと見えて、十日の四万六千日《しまんろくせんにち》に浅草から青ほおずきを買って帰る仲の町芸妓の袂にも、夜露がしっとりと沁みるのが知れて来る。十二日も十三日も盂蘭盆の草市《くさいち》で、廓も大門口から水道尻《すいどうじり》へかけて人の世の秋の哀れを一つに集めたような寂しい草の花や草の実を売りに出る。遊女もそぞろ歩きを許されて、今夜ばかりは武蔵野に変ったような廓の草の露を踏み分けながら、思い思いに連れ立ってゆく。禿の袂にきりぎりすの籠を忍ばせて帰るのもこの夜である。
綾衣はおととしのこの夜に、初めて外記に逢った。
その晩は星の多い夜であった。仲の町の両側に隙き間もなく積み重ねられた真菰《まこも》や蓮の葉には初秋の涼しい露が流れて、うるんだ鼠尾草《みそはぎ》のしょんぼりした花の上に、亡き魂《たま》の仮りの宿ともいいそうな小さい燈籠がうす暗い影を投げていた。綾衣は新造の綾鶴と禿の満野とを連れて、宵のうちに仲の町へ出た。その途中でかの夕雛に逢った。夕雛は起請《きしょう》を取りかわしている日本橋辺のあきんどの若い息子と、睦まじそうに手をひかれて歩いていた。綾衣も笑いながらその肩を叩いて行き違った。
京町《きょうまち》の角は取り分けて賑わっていた。またその混雑を面白いことにして、わざと人を押して歩く浮かれた男たちも多かった。その中には喧嘩でも売りそうな生酔いもあった。生酔いの一人は綾衣の前に立ちふさがって、酒臭い息をふきながら穴の明くようにじっとその顔を覗き込んだ。こんな人も珍らしくない。綾衣も煩さそうに顔をそむけながら、角を右へ曲がろうとする出逢いがしらに、むこうから来た二人連れの侍に突き当らないばかりに摺れ合って行き違った。と思うと、彼女は不意に袖を掴《つか》まれてひと足よろけた。すれ違うはずみに綾衣の袖が一人の侍の刀の柄《つか》に引っかかって、中身は危うくするりと抜け出そうとしたのを、
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