い、口もとの引きしまった点は、優しい美女というよりもむしろ凛《りん》とした美少年のおもかげを見せていた。金糸で大きい鰕《えび》を刺繍《ぬい》にした縹色繻子《はないろじゅす》の厚い裲襠《しかけ》は、痩せてすらりとした彼女の身体《からだ》にうつりがよかった。頭に輝いている二枚櫛と八本の簪《かんざし》とは、やや驕慢に見える彼女の顔をさらに神々《こうごう》しく飾っていた。
「番町の殿様お待ちかねでござります」と、女房は笑顔を粧《つく》った。「すぐにお連れ申しましょうか」
「あい」と、綾衣はふたたび鷹揚にうなずいた。
「では、お頼み申します」
 若い者は提灯を消してひと足さきに帰ると、茶屋の女中は送りの提灯に蝋燭《ろうそく》を入れた。
「きつい風になった。気をつけや」と、女房が声をかけた。
 寒い風が仲の町を走るように吹いて通った。この風におどろいた一匹の小犬が、吹き飛ばされたようにここの軒下へ転げ込んで悲鳴をあげた。
「あれ、怖い」
 禿は新造にすがって、わっ[#「わっ」に傍点]と泣き出した。
「これ、おとなしくしや」
 綾衣にやさしく睨まれて、禿は新造の長い袂《たもと》の下に小さい泣き顔を押し込んでしまった。

     三

 あくる朝は四つ頃(十時)から雪になった。
 この四、五日は暖かい日和《ひより》がつづいたので、もう春が来たものと油断していると、きのうの夕方から急に東の風が吹き出して、それが又いつか北に変った。吉原は去年の四月丸焼けになった。橋場今戸の仮宅から元地へ帰ってまだ間もない廓《くるわ》の人びとは、去年のおそろしい夢におそわれながら怯《おび》えた心持ちで一夜を明かした。毎晩聞きなれた火の用心の鉄棒《かなぼう》の音も、今夜は枕にひびいてすさまじく聞えた。幸いに暁け方から風もやんだが、灰を流したような凍った雲が一面に低く垂れて来た。
「雪が降ればいいのう」と、禿どもは雪釣りを楽しみに空を眺めていた。
 こんな朝に外記は帰るはずはなかった。綾衣も帰すはずはなかった。「居続客不仕候」などと廊下にしかつめらしい貼札があっても、それはほんの形式に過ぎないことは言うまでもない。こういう朝にこそ居続けの楽しみはあるものを、外記は綾衣に送られて茶屋へ帰らなければならなかった。
 金龍山《きんりゅうざん》の明け六つが鳴るのを待ち兼ねていたように、藤枝の屋敷から中間《ちゅうげん》の角助が仲の町の駿河屋へ迎いに来た。ゆうべあいにく市ヶ谷の叔父さまがお屋敷へお越しなされて、また留守かときつい御立腹であった。お嬢さまも御用人もいろいろに取りつくろって其の場はどうにか納まったものの、明日もまだ帰らぬようであったらおれにもちっと考えがある、必ずおれの屋敷まで知らせに参れと、叔父さまがくれぐれも念を押して帰られた。就いてはきょうもお留守とあっては、どのような面倒が出来《しゅったい》いたさぬとも限られませねば、是非とも一度お帰り下さるようにと、お縫と三左衛門との口上を一緒に列べ立てた。
「叔父にも困ったものだ」
 外記はさも煩《うる》さそうに顔をしかめたが、ともかくもひとまず茶屋へ帰って角助に逢った。角助は渡り中間《ちゅうげん》で、道楽の味もひと通りは知っている男であった。主人のお伴をして廓へ入り込んで、自分は羅生門河岸《らしょうもんがし》で遊んで帰るくらいのことは、かねて心得ている男であった。その方からいうと、彼はむしろ外記の味方であったが、きょうばかりはお帰りになる方がよろしゅうござりますと、彼もしきりに勧めた。お嬢さまはゆうべお寝《やす》みにならないほど御心配の御様子でござりましたとも言った。
「お縫までが……。揃いもそろって困ったやつらだ。よし、よし、きょうは帰る」と、外記は叱るように言った。
 腹立ちまぎれに支度さして外記はすぐに駕籠に乗った。寝足らない眼に沁みる朝の空気は無数の針を含んでいるようで、店の前の打ち水も白い氷になっていた。
「お寒うござりましょう。お羽織の上にこれをお召しなされまし」と、女房は気を利かして、綿の厚い貸羽織を肩からふわりと着せかけてくれたが、焦《じ》れて、焦れ切っている外記には容易に手が袖へ通らないので、彼はますます焦れた。曲がったうしろ襟を直してくれようとする女房の手を払いのけるようにして、彼は思い切りよく駕籠にひらりと乗り移った。
「気をつけてお出でなんし」
 綾衣が駕籠の垂簾《たれ》を覗こうとする時に、白粉《おしろい》のはげた彼女の襟もとに鳥の胸毛のような軽い雪がふわりふわりと落ちて来た。

 けさのこうした別れのありさまを思いうかべながら、綾衣は十畳の座敷につづいた八畳の居間に唯ぼんやりと夢みるように坐っていた。大籬《おおまがき》に育てられた彼女は、浮世絵に描かれた遊女のようにしだら[#「しだら」に傍点]
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