さま。それでは違います」と、外記は眠そうな声で注意した。
「何が違う」と、五郎三郎も眼が醒めたように盤を睨んだ。
「お前さまのこの石はもう死んでおります」
「馬鹿を申すな。なんでこれが死ぬものか」
「でも、これは……」と、外記も行きがかりで争った。
「ええ、卑怯なことを申すな」
 こう言い募って来るうちに、五郎三郎の血はのぼって来た。機会は今だ、と心の奥からささやかれて、彼は再び盤を指した。
「これ、よく見ろ。この石はこう切ったのだ」
 切るという自分のことばで、自分にはずみを付けて、五郎三郎の手が刀の柄にかかったかと思うと彼は抜き撃ちに切り付けた。外記も武芸の心得はある。躱《かわ》したからだに初太刀《しょだち》は空を撃たせて、二度目の切っさきは碁盤で受け留めた。茶を持って来たお縫は驚いて声を立てた。三左衛門も駈けつけて来た。
 五郎三郎ももう隠す訳にも行かなくなって、盤の上の一目二目の争いから、分別盛りの侍がおとなげない刃物|三昧《ざんまい》をしたと思うな、家のため、親類縁者のためには、どうしても甥一人を殺すよりほかはないのだという自分の決心を明かして聞かせた。そうして外記にむかって、この上は尋常に腹を切れ、叔父が介錯してやると迫った。
 外記はまだ命が惜しいと言った。お手討ちも詰め腹も真平御免《まっぴらごめん》だとことわった。叔父は卑怯な奴だといきまいた。甥は卑怯でないと冷やかに答えた。叔父と甥との考えはまるで食い違っていた。
 叔父のいう理屈は、ひとつも外記の胸に落ちなかった。彼はむしろ腹立たしくなった。手討ちにするの、腹を切れのと、ひとの命を自分の勝手に取扱おうとするのが既に無理な注文ではないか。自分の命には自分という持ち主がある。家のためや親類縁者のためや、そうした事情のいけにえとして、罪もない自分のいのちを安価に売り買いされるのは自分の堪え得ることでない。それを拒《こば》むのは決して卑怯でないと外記は思った。彼はどうしても死ぬのは忌《いや》だと言い切った。
 お縫や三左衛門にも外記の料簡は理解し得られなかった。しかし、かれらもさすがに兄や主人を殺そうとは思いも付かないので、泣いて縋って五郎三郎をさえぎった。二人はまつわられて五郎三郎も持て余した。
「では、きょうのところはともかくも免《ゆる》して置くから、よく分別して見ろ。卑怯者め」
 ふた口目には卑怯呼
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