心した。お時も十吉もほっとした。ある晩、外記が来た時にその話をすると、外記は面白そうに笑っていた。
「おれも悪旗本かも知れないよ」
用心深いお時おやこと正直なお米との間に秘密は固く守られて、くるわに近いこの隠れ家に大菱屋の眼はとどかなかった。こうしてひと月余りも送るうちに、六月の土用も明けて、七月の秋が来た。
きょうは盂蘭盆の十三日で、昼の暑さはまだ水売りの声に残っているが、陰るともなしに薄い日影が山の手の古びた屋敷町を灰色に沈ませて、辻番《つじばん》のおやじが手作りの鉢の朝顔も蔓ばかり無暗に伸びて来たのが眼に立った。番町の藤枝の屋敷もひっそりと門を閉じて、塀の中からは蝉《せみ》の声ばかりがきこえた。
小普請入りとなれば暮らし向きも幾らか詰まって来る。殊に主人の放埒からいよいよ内証は苦しくなっているので、藤枝の屋敷でもこの春から家来や下女を減らした。さらぬでも陰気な屋敷の内が、このごろはますます寂しくなった。外記はこの五月頃から夜泊まりをしなくなって、夕方から屋敷を出ても夜ふけには必ず帰って来た。しかし放埒の噂はやはり消えないで、いよいよ甲府勝手を仰せ付けられるかも知れないなどという風説がお縫や三左衛門の胸を冷やした。
外記はそんなことに頓着しないらしかった。おととしまではこの日に墓参を欠かさなかったが、きょうは居間に閉じ籠って碌ろく口も利かなかった。午飯《ひるめし》を食ってしまっても何かぼんやりと考え暮らしていたが、やがて用人を呼びつけた。
「三左衛門。少し金子入用だが、知行所《ちぎょうしょ》から取り立てる工夫はないか」
おととし以来、これは毎々のことであるので、用人も手強く断わった。
「いかにご自分の御《ご》知行所でも、さだめのほかに無体の御用金などけしからぬ儀でござります」
「では、蔵の中から不用の鎧兜《よろいかぶと》太刀などを持ち出して、売り払ってはどうだ」
「鎧兜太刀などは武士の表道具、まして御先祖伝来の大切な品々、お前さまの御自由には相成《あいな》りませぬ」
何を言っても取り合わないばかりか、あべこべに主人を遣《や》り込めるような調子に、外記はむっとした。彼は黙って起ちあがって、床の間の鎧櫃《よろいびつ》から一領の鎧を引き摺り出して来た。
「これ、三左衛門。おれが今この鎧を持ち出して勝手に売り払ったらどうする」
三左衛門は形を改めて、唯今も
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