水を持って来た。二人は蓑をぬいで足を洗った。
 外記は浅黄色の単衣《ひとえもの》の裾を高くからげて、大小を落し差しにしていた。女は緋の長襦袢の上に黒ずんだ縮緬を端折《はしょ》って、水色の細紐《しごき》を結んでいた。顔を包むためか、白い手拭を吹き流しにかぶって手に笠を持っていた。二人とも素足であった。女の白い脛《はぎ》に紅い襦袢がぬれてねばり着いているのは媚《なまめ》かしいというよりも痛々しかった。
 この雨の夜に殿様と連れ立って来た美しい女が誰であるかは、お時にもたいてい想像されたので、彼女は十吉に眼くばせして雨戸をぴったり閉めさせた。男はすぐに炉のそばへ寄って来て、ぬれた袂を乾かした。女は手拭をとって、鬢《びん》のしずくが玉と散るのを払ったりしていた。
「殿様。いらっしゃりませ」
 母子がうやうやしく手をついて、ひたいを畳に摺り付けるのを、外記は手をあげて制した。
「いや、その挨拶はやめてくれ。乳母はおれの留守にたびたび来たそうだから、大抵の話は聴いているだろう。くどくは言わない。当分この女を預かってくれ」
 言う尾について女も軽く会釈した。
「わたしは大菱屋の綾衣でおざんす。お前がたの頼もしいことは、主《ぬし》からもかねて承わっていやんした。どうぞよろしく頼みんす」
 お時は挨拶に困って、ただ「はい、はい」と、幾たびか頭を下げていた。十吉は呆気《あっけ》に取られて、透き通るように白い女の顔をぼんやりと眺めていた。
 箕輪田圃の雨にぬれて、この百姓家へ不意に押し掛けて来た二人は、言うまでもなく駈落ち者であった。大菱屋では綾衣の客はますます落ちる。外記はしげしげかよって来る。二人がだんだんに行き詰まって来るのはもう眼に見えているので、はらはら[#「はらはら」に傍点]しながら見張っていると、綾衣が新造の綾浪に頼んで蒔絵《まきえ》の櫛と笄《こうがい》とを質に入れさせた。それは外記のためであるということが判ったので、かねて機会を待っていた大菱屋ではこれを究竟《くっきょう》の口実にして、すぐに茶屋に通じて外記を堰《せ》いた。
 茶屋は年来の馴染みであるから一応は抗議を申し込むべきであったが、これも二人が昨今の突き詰めた有様に不安を懐《いだ》いていたので、当分は足をお抜きになった方がお二人さんのお為でござりましょうと、外記にも意見した。もうこの上は理屈をいっても仕方がない。外
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