枝から枝に動いた。
雛の節句の前夜に外記は来た。大抵のよい客はあしたの紋日《もんび》を約束して今夜は来ない。引け過ぎの廓はひっそりと沈んで、絹糸のような春雨は音もせずに軒を流れていた。
「お宿《やど》の首尾はどうでありんすえ」
綾衣に訊かれても男はただ笑っていた。
内そとの首尾の悪いのは今さら言うまでもない。部屋住みの身分でもなし、隠居の親たちがあるのではなし、自分はれっき[#「れっき」に傍点]とした一家の主人でありながらも、物堅い武家屋敷にはそれぞれに窮屈な掟がある。いくら家来でも譜代の用人どもには相当遠慮もしなければならない。外には市ヶ谷の叔父を始めとして大勢のうるさい親類縁者が取り巻いている。これらがきのう今日は一つになって、内と外から外記の不行跡《ふぎょうせき》を責め立てている。味方は一人もない。四方八方はみな敵であった。
しかしそれを恐れるような弱い外記ではなかった。何百人の囲みを衝いても、自分は自分のゆくべき道をまっすぐに行こうとしていた。自分はそう覚悟していればそれでよい。詰まらない愚痴めいたことを言って、可愛い女によけいな苦労をさせるには及ばないと、彼は努めてなんにも言うまいと心に誓っていた。綾衣が何を訊いても、彼はいつも晴れやかな笑いにまぎらして取り合わなかった。
その心づかいは神経のするどい綾衣によく判っていた。殊に外記が今夜の笑い顔には、拭き消すことのできない陰った汚点が濃くにじんでいるのを認めていた。
「なんだか今夜は顔の色が悪うおす。また風邪でも引きなんしたかえ」
綾衣は枕もとの煙草盆を引き寄せて、朱羅宇《しゅらお》の長煙管《ながきせる》に一服吸い付けて男に渡した。
外記は天鵝絨《びろうど》に緋縮緬のふちを付けた三つ蒲団の上に坐っていた。うしろに刎《は》ねのけられた緞子《どんす》の衾《よぎ》は同じく緋縮緬の裏を見せて、燃えるような真っ紅な口を大きくあいていた。綾衣は床の中へは入らずに、酔いざめのやや蒼ざめた横顔をうす暗い行燈に照らさせながら、枕もとにきちんと坐っていた。
「いや、おれは別にどうでもない。お前こそこの頃は顔の色がよくないようだが、また血の道でも起ったのか」
「いいえ」
外記のくゆらす煙りは立て廻した金屏風に淡い雲を描いて、さらに枕もとの床の間の方へ軽くなびいて行った。綾衣は雛を祭らなかったが、床の間には源平の桃
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