ていましたが、肝腎の首実検《くびじっけん》の件に就てはあまり多くいっていませんでした。やはり忠義ということよりも親子の情という方面に重きを置いているのでしょう。フランクリン・ホールの源蔵は、努めて日本人の癖を学ぼうとして前屈《まえかが》みになり過ぎるのが眼障《めざわ》りでしたが、小太郎を見て「オオ、グード、ボーイ」とじっとその顔を眺めるあたりは大芝居でした。戸浪と差向いになって身代りの思案を話すあいだも巧いものでした。勿論どの人も首ということは一言もいいません、いかなる場合にも単にスレイン(殺す)といっていたのは、外国人として無理ならぬことです。しかしどの人も努めて西洋劇にならない用心をしているのか、ひどく台詞を伸ばして静にいっているのが、わたしどもにはかえって異様にきこえました。春藤玄蕃《しゅんどうげんば》の出も、村の者の呼出しも、すべて型の通りで、涎くりが玄蕃に扇で打たれ、泣いて引込むと観客はどっ[#「どっ」に傍点]と笑います。
私のおどろいたのは、主人公の松王を勤めたヘンリー・ウォルサルの立派なことです。病鉢巻《やまいはちまき》をして出て来たところは訥子《とっし》を大柄にしたよ
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