米国の松王劇
岡本綺堂

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)眼に注《つ》き

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)一|刹那《せつな》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「ころもへん+上」、第4水準2−88−9]
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 白人劇の忠臣蔵や菅原はかねて噂には聞いていましたが、今度米国へ渡って来て、あたかもそれを見物する機会を得ました。わたしがサンフランシスコを夜汽車で出発して、ロスアンゼルスの町に着いたのは三月の十九日で、ホテルに入って新聞を見ると、ハリーウードのコンムニチー・シェーターで松王劇を演じているが、それが非常の好評で一週間の日のべをされるという記事が眼に注《つ》きました。あたかもたずねて来てくれたホーム貯蓄銀行の清原君にその案内をたのむと、清原君はまだ一度も行って見たことはないが、ともかくも案内しようということで別れたのが午後二時頃でした。それからだんだん訊《き》いてみると、コンムニチー・シェーターというのは一種の会員組織のようなもので、突然に押蒐《おしか》けて行っても入場が出来るかどうだか判らないとのことでした。そうなるとなおなお見たいような気がするので、早々に夕飯を済ませて清原君の来るのを待っていると、清原君は八時頃に誘いに来て、生憎《あいにく》に降って来ましたという。降っても構わないからともかくも連れて行ってくださいと強請《せが》んで、伊坂君と一所《いっしょ》に宿を出ると、冷たい雨がびしょびしょ降っていました。ハリーウードというのは近頃ロスアンゼルスの市に編入された所で、市の中央からはかなりに距《はな》れています。電車で約三十分を費した後に、その劇場の前にゆき着くと、雨に濡れた自動車が路《みち》の両側に長い列を作っています。これではいよいよ入場がむずかしいかも知れないと危《あやぶ》みながら、入口の窓口へ行って訊いてみると、若い女が窓から首を出して、会員以外でも入場させないことはない、しかし今度の劇は十八日から二十四日まで一週間の予定であったのを、切符売切れのために更に三十一日まで一週間の日のべをした位であるから、二十五日以後でなければ入場券を差上げるわけには行かないと、気の毒そうに断るのです。実際我々ばかりでなく、おなじように断られて雨のなかをすごすご帰ってゆく婦人などが沢山あります。もう仕様がないと諦めかけると、清原君は俄《にわか》に智慧を出して、今夜ここに早川雪洲夫人が来ているかと訊くと、来ているという。それでは早川君に頼んでなんとかしてもらいたいと、清原君が名刺を出して頼むと、女は承知して奥に這入《はい》りました。外ではまだ雨が降っています。そんな押問答をしているうちに、肝腎の松王劇が済んでしまっては詰まらないと思って、わたしは首を長くして内をのぞいていると、やがて女は再び出て来て、到底普通の椅子席はないが、立見同様でよければ案内して遣《や》るという。それで結構とすぐに案内されて這入ると、なるほど会員組織らしい小劇場で、二階もなんにもない、極めて質素な小さい建物でした。しかし立派な服装の人たちが一杯に席を埋めていました。
 私たちは補助椅子といったようなものをあてがわれて、隅の方に小さく控えていると、第二の一幕物がもう終るところでした。プログラムを観ると第三が松王で、それが今度の呼物であるということが判りました。この松王は欧洲でも上場されたことがあり、米国では紐育《ニューヨーク》ではじめて上場されたのですが、その演出法が和洋折衷で面白くないというので不評であったそうです。今度はその当時とまったく違った俳優たちが純日本式のプロダクションを見せるという、それが観客の人気を呼んだらしいのです。登場者は活動写真の俳優として知られているヘンリー・ウォルサルやフランクリン・ホールの人たちで、それに大学の学生たちが加わっているのです。涎《よだれ》くりその他の寺子を呼出しにくる村の者は、すべて大学生であるということを後に聞きました。
 幕があくと、御約束の寺子屋の舞台です。舞台が狭いのでよほど窮屈らしく見えましたが、ともかくも二重家体《にじゅうやたい》を飾って、うしろの出入口には障子が閉めてあります。菅秀才《かんしゅうさい》が上手《かみて》の机にむかって手習いをしている。下手《しもて》に涎くりとほかに三人の子供が机にむかっている。いずれも日本風の鬘《かつら》をかぶって、日本の衣裳を着ています。その衣裳に多少の無理は見えながらも、別におかしいと思うほどのこともありませんでした。
 台詞《せりふ》は寺子屋の浄瑠璃の本文を殆《ほとん》ど逐字訳といっても好いくらいに英訳したもの
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