ということで……。うれしい中にもそれが気にかかるとみえまして、それを話した時には、お鶴もなんだか忌《いや》な顔をしておりましたが、なに、子供の冗談だろうぐらいのことで、わたくしは格別に気にも止めずにおりましたところ、それから五、六日経たないうちに、娘はほんとうに殺されてしまいましたのでございます。」
 この申立てによると、お鶴の死は平造との縁談に何かの関係があるらしく思われた。しかもお鶴に対して怖ろしい予告をあたえた少女は何者であるか、それは勿論わからなかった。おすまも留守中のことであるので、その少女の人相や風俗を知らなかった。
 ここにひとつの疑問は、平造がおすま親子に対して、自分の住所や勤め先を明らかにしていないことであった。単に横浜の外国商館に勤めているというだけで、かれはその以外のことをなんにも語らなかったのである。世間を知らない親子はさのみそれを怪しみもしなかったのであるが、これほどの関係になっていながら、それを明かさないのは少し不審である。彼は商館に寝泊りしていると言っていたそうであるが、それがどうも疑わしいので、念のために横浜の外国商館を取調べてみたが、どこにも村田平造という雇人はなかった。彼はその後、深川の旧主人の店に再びその姿をみせなかった。
 お鶴殺しの犯人は遂に発見されなかった。事件はすべて未解決のままに終った。この年の十二月に暦が変って明治六年の正月は早く来た。したがって、時候はひと月おくれになって、今までは三月と決まっていた花見月が四月に延びた。
 その四月の花見に、ここの町内のひと群れが向島へ繰出すと、群集のなかに年ごろ三十二、三の盛装した婦人と二十六、七の若い男とが連れ立って行くのを見た。その男は確かにあの村田平造であると長屋の大工のおかみさんが言った。ほかの二、三人もそうらしいとささやき合っているうちに、男も女も混雑にまぎれて姿を隠してしまった。
 その噂がまた伝わって、ここにいろいろの風説が生み出された。
 かの平造が横浜の商館に勤めているというのは嘘で、彼はある女盗賊の手下《てした》になっているのだという者もあった。また、かれが商館に勤めているのは事実であるが、姓名を変えているので判らないのである。一緒に連れ立っていたのは外国人の洋妾《らしゃめん》で、背中に一面の刺青《ほりもの》のある女であるという者もあった。しかも、それらの風説に確かな根拠があるのではなく、平造の秘密はお鶴の死と共に、一種の謎として残された。いずれにしても平造が去ろうとする時に去らせてしまえば、おすまの一家はなんの禍いを受けずに済んだのであろう。それがいつまでも母親の悔みの種であった。



底本:「蜘蛛の夢」光文社文庫、光文社
   1990(平成2)年4月20日初版1刷発行
初出:「文藝講談」
   1927(昭和2)年1月
入力:門田裕志、小林繁雄
校正:花田泰治郎
2006年5月7日作成
青空文庫作成ファイル:
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