然に遠慮がなくなって婿の候補者を二、三人推薦する者もあったが、おすま親子はその厚意を感謝するにとどまって、いつも体《てい》よく拒絶していた。それでは、あの村田という人をお婿にするのかと露骨に訊《き》いた者もあったが、おすまはただ笑っているばかりで答えなかった。
しかし従来の関係から推察して、かの村田という男がお鶴の婿に決められたらしいという噂が高くなった。以前はあまり身だしなみもしなかったが、お鶴もこのごろは髪を綺麗に結い、身なりも小ざっぱりとしているので、容貌のいいのがまた一段と引立ってみえた。
九月の初めである。この当時はまだ旧暦であるから、朝夕はもう薄ら寒くなって来たので、お鶴は新しい袷を着て町内の湯屋へ行った。きょうは午頃《ひるごろ》から細かい雨が降っていたので、お鶴は傘をかたむけて灯ともし頃の暗い町をたどって行くと、もう二足《ふたあし》ばかりで湯屋の暖簾《のれん》をくぐろうとする所で、物につまずいたようにばったり倒れた。鋭い刃物に脇腹を刺されて殆んど声も立てずに死んだのである。往来の人がそれを発見して騒ぎ立てた頃には、雨の降りしきる夕暮れの町に加害者の影はみえなかった。それが洋服を着た男であるともいい、あるいは筒袖のようなものを着た女であるともいい、その噂はまちまちであったが、結局とりとめたことは判らなかった。
いずれにしても、この不意の出来事が界隈の人びとをおどろかしたのは言うまでもない。係りの役人の取調べに対して、おすまはこういう事実を打明けた。
「わたくしの連合《つれあ》いは大沢喜十郎と申しまして、二百五十石取りの旗本でございましたが、元年の四月に江戸を脱走して奥州へまいりました。その時に用人の黒木百助と、若党の村田平造も一緒に付いてまいりましたが、連合いの喜十郎と用人の百助は白河口の戦いで討死をいたしました。若党の平造はどうなったか判りませんが、身分の軽い者でございますから、おそらく無事に逃げ延びたものであろうと存じておりますと、昨年の六月、両国の広小路でふとめぐり逢いましたのでございます。平造は案の通り、無事に奥州から落ちてまいりまして、それから横浜へ行って外国商館に雇われていると申すことで、四年のあいだに様子もたいそう変りまして、唯今ではよほど都合もよいような話でございました。
わたくし共は主人を失い、屋敷も潰《つぶ》れてしまいまして、見る影もなく落ちぶれております。それを平造はひどく気の毒がりまして、その後は毎月二、三度ずつ横浜から尋ねて来て、いろいろの面倒を見てくれますばかりか、来るたびごとに幾らかずつの金を置いて行ってくれました。いっそ小商《こあきな》いでも始めてはどうだと申しまして、唯今の店も買ってくれました。そのお蔭で、わたくし共もどうにかこうにか行き立つようになりますと、平造はもうこれぎりで伺いませんと申しました。わたくし共もこの上に平造の世話になる気はございませんから、それぎりで別れてしまってもよかったのでございますが……。娘のお鶴は平造の親切に感じたのでございましょう。内々で慕っているような様子がみえます。わたくしも出来るものならば、ああいう男を娘の婿にしてやりたいという気も起りましたので、金銭の世話は別として、相変らず尋ねて来てくれるように頼みました。そうして、お鶴を貰ってくれないかというようなことも仄《ほの》めかしますと、平造は嬉しいような、迷惑らしいような顔をしまして、御主人のお嬢さまをわたくし共の家内に致すのは余りに勿体のうございますからという、断りの返事でございました。
そうは言うものの、平造もまんざら忌《いや》ではないらしい様子で、その後も相変らず尋ねてまいりました。八月のはじめに参りました時に、わたくしは再び娘の縁談を持出しまして、主人の家来のというのは昔のことで、今はわたし達がお前の世話になっているのであるから、身分の遠慮には及ばない。娘もおまえを慕っているのであるから、忌《いや》でなければ貰ってくれと申しますと、平造はやはり嬉しいような困ったような顔をして、自分は決して忌ではないが、その御返事は今度来る時まで待っていただきたいといって帰りました。それから八月の末になって、平造はまた参りましたが、あいにくわたくしは寺参りに行った留守でございまして、お鶴と二人で話して帰りました。
その時に娘と差向いでどんな話をしたのかよく解りませんが、平造は縁談を承知したらしいような様子で、お鶴は嬉しそうな顔をしていました。しかしお鶴の話によりますと、平造が帰るのを店先に立って見送っていると、ここらでは見馴れない女の児が店へはいって来たそうです。買物に来たのだと思って、なにを差上げますと、声をかけると、その女の児は怖い顔をして、おまえは殺されるよと言ったぎりで、出て行ってしまった
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