怖ろしいとも存じませぬが、瞋恚《しんい》執着《しゅうぢゃく》が凝りかたまって、生きながら魔道におちたるお前さまは、修行の浅いわれわれの力で、お救い申すことはかないませぬ。おいたわしゅうござりますれど、もうおわかれ申しまする。
(詞《ことば》すずしく云い放ちて、雨月は数珠にてわが身を払いきよめ、笠をかたむけてしずかにあゆみ去る。又もや雨はげしく降りいず。玉虫は起ちあがりて、二つの死骸を見おろす。)
玉虫 呪詛《のろし》のしるしあらわれて、ここにふたつの生贄《いけにえ》をならべた。源氏の運も長からず、一代…二代……。(指折りかぞえて。)おそくも三代の末までには……。かならず根絶やしにして見しょうぞ。(物すごき笑みをもらしつ。)さるにても、妹はともあれ、与五郎は那須の一族。かれを此のように殺したからは、敵も安穏には捨て置くまい。やがて射手の向うは知れたこと……。わらわの身を隠すべきところは……。
(浪の音たかく、一匹の平家蟹這い出で、縁にのぼる。)
玉虫 おお、蟹……。わらわを案内してたもるか。して、どこへ……。海へゆくのか。よい、よい。(蟹は消ゆ。浪の音いよいよ高し。)
玉虫 や、蟹はいつの間にか……。(あたりを見廻して。)おお、新中納言どの……。能登守どの……。また見えられたか。いざ御一緒に……わらわも海へまいりまする。おおそうじゃ。浪の底にも都はある。わらわも役目を果たしたれば、これからはお宮仕え。さあ、お供いたしまする。
(眼にもみえぬ人に物いう如く、玉虫はひとり語りつつ庭に降り立ち、表のかたへ迷い出でんとする時、向うより那須の家来弥藤二は松明を持ちて再びいず。)
弥藤二 若殿……。お迎い……。
(云いつつ門《かど》をあけんとして、出逢いがしらに玉虫に突きあたる。玉虫は物をも云わず、その松明をうばい取る。弥藤二おどろきて支えんとするを、玉虫は無言にて突き退け、片手に松明をふりかざして、緋の袴を長くひきつつ、足もしどろに迷いゆく。弥藤二は呆れてあとを見送る。浪の音、雨の音。)[#地から1字上げ]――幕――
[#地付き](明治四十四年九月執筆/明治四十五年四月、浪花座で初演)
底本:「伝奇ノ匣2 岡本綺堂妖術伝奇集」学研M文庫、学習研究社
2002(平成14)年3月29日初版発行
初出:「浪花座」公演
1912(明治45)年4月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:川山隆
校正:門田裕志
2008年12月4日作成
青空文庫作成ファイル:
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