風呂を買うまで
岡本綺堂

−−
【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)羨《うらや》んで

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)浅草|千束町《せんぞくちょう》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#天から3字下げ]宿無しも今日はゆず湯の男哉
−−

 わたしは入浴が好きで、大正八年の秋以来あさ湯の廃止されたのを悲しんでいる一人である。浅草|千束町《せんぞくちょう》辺の湯屋では依然として朝湯を焚くという話をきいて、山の手から遠くそれを羨《うらや》んでいたのであるが、そこも震災後はどうなったか知らない。
 わたしが多年ゆき馴れた麹町《こうじまち》の湯屋の主人は、あさ湯廃止、湯銭値上げなどという問題について、いつも真先に立って運動する一人であるという噂を聞いて、どうも好くない男だとわたしは自分勝手に彼を呪《のろ》っていたのであるが、呪われた彼も、呪ったわたしも、時をおなじゅうして震災の火に焼かれてしまった。その後わたしは目白に一旦《いったん》立退《たちの》いて、雑司《ぞうし》ヶ|谷《や》の鬼子母神《きしもじん》附近の湯屋にゆくことになった。震災後どこの湯屋も一週間|乃至《ないし》十日間休業したが、各組合で申合せでもしたのか知れない、再び開業するときには大抵その初日と二日目とを無料入浴デーにしたのが多い。わたしも雑司ヶ谷の御園湯という湯屋でその二日間無料の恩恵を蒙《こうむ》った。恩恵に浴すとはまったくこの事であろう。それから十月の初めまで私は毎日この湯に通っていた。九月二十五日は旧暦の十五夜で、わたしはこの湯屋の前で薄《すすき》を持っている若い婦人に出逢った。その婦人もこの近所に避難している人であることを予《かね》て知っているので、薄ら寒い秋風に靡《なび》いているその薄の葉摺れが、わたしの暗いこころを一《ひ》としお寂しくさせたことを記憶している。
 わたしはそれから河野義博君の世話で麻布の十番に近いところに貸家を見つけて、どうにか先《ま》ず新世帯を持つことになった。十番は平生でも繁昌している土地であるが、震災後の繁昌と混雑はまた一層甚だしいものであった。ここらにも避難者が沢山あつまっているので、どこの湯屋も少しおくれて行くと、芋を洗うような雑沓《ざっとう》で、入浴する方がかえって不潔ではないかと思われるくらいであったが、わたしはやはり毎日かかさずに入浴した。ここでは越の湯と日の出湯というのに通って、十二月二十二、二十三の両日は日の出湯で柚湯《ゆずゆ》に這入《はい》った。わたしは二十何年ぶりで、ほかの土地のゆず湯を浴びたのである。柚湯、菖蒲湯《しょうぶゆ》、なんとなく江戸らしいような気分を誘い出すもので、わたしは「本日ゆず湯」のビラをなつかしく眺めながら、湯屋の新しい硝子戸《ガラスど》をくぐった。
[#天から3字下げ]宿無しも今日はゆず湯の男哉
 二十二日は寒い雨が降った。二十三日は日曜日で晴れていた。どの日もわたしは早く行ったので、風呂のなかはさのみに混雑していなかったが、ゆず湯というのは名ばかりで、湯に浮んでいる柚の数のあまりに少いのにやや失望させられた。それでも新しい湯にほんのりと匂う柚の香は、このごろとかくに尖り勝《がち》なわたしの神経を不思議に和《やわら》げて、震災以来初めてほんとうに入浴したような、安らかな爽かな気分になった。
 麻布で今年の正月をむかえたわたしは、その十五日に再びかなりの強震に逢った。去年の大震で傷んでいる家屋が更に破損して、長く住むには堪えられなくなった。家主も建直したいというので、いよいよ三月なかばにここを立退いて、更に現在の大久保百人町に移転することになった。いわゆる東移西転、どこにどう落付くか判らない不安をいだきながら、ともかくもここを仮りの宿りと定めているうちに、庭の桜はあわただしく散って、ここらの躑躅《つつじ》の咲きほこる五月となった。その四日と五日は菖蒲湯である。ここでは都湯というのに毎日通っていたが、麻布のゆず湯とは違って、ここの菖蒲湯は風呂一杯に青い葉をうかべているのが見るから快かった。大かた子供たちの仕事であろうが、青々と湿《ぬ》れた菖蒲の幾束が小桶に挿してあったのも、なんとなく田舎めいて面白かった。四日も五日も生憎《あいにく》に陰《くも》っていたが、これで湯あがりに仰ぎ視《み》る大空も青々と晴れていたら、更に爽快であろうと思われた。
 湯屋は大久保駅の近所にあって、わたしの家からは少し遠いので、真夏になってから困ることが出来た。日盛りに行っては往復がなにぶんにも暑い。ここらは勤人が多いので、夕方から夜にかけては湯屋がひどく混雑する。わたしの家に湯殿はあるが、据風呂がないので内湯を焚くわけに行かない。幸《さいわい》に井戸の水は良
次へ
全2ページ中1ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
岡本 綺堂 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング