ましてわれは今やこの父を失えるも、家に残れる母あり、出でて嫁げる姉あり、親戚あり、朋友あるに、何ぞ俄《にわか》に杖を失いし盲者の如く、水を離れし魚の如く、空しく慌て空しく悲むべき。父よ、冀《こいねがわ》くは我を扶《たす》けわれを導いて、進んで世と戦うの勇者たらしめよ、哀《かなし》んで傷《やぶ》らざるの孝子たらしめよ。窃《ひそ》かにかく念じて、われは漸く墓門を出でたり。出ずるに臨みてまたおのずから涙あり。湿《うる》める眼をしばたたきて見かえれば、そよ吹く風に誘われて、花筒に挿《はさ》みたる黄と紫の花相乱れて落ちぬ。鴉《からす》一羽、悲しげに唖々《ああ》と啼《なき》過《すぐ》れば、あなたの兵営に喇叭《らっぱ》の声遠く聞ゆ。
おぼつかなくも籬《かき》に沿い、樹間《このま》をくぐりて辿《たど》りゆけばここにも墓標新らしき塚の前に、一群《ひとむれ》の男女《なんにょ》が花をささげて回向《えこう》するを見つ、これも親を失える人か、あるいは妻を失えるか、子を失えるか、誠にうき世は一人《いちにん》のうき世ならず、家々の涙を運ぶこの青山の墓地、芳草《ほうそう》年々緑なる春ごとに、われも人も尽きぬ涙を墓前に灑ぐべきか。噫《ああ》。
底本:「岡本綺堂随筆集」岩波文庫、岩波書店
2007(平成19)年10月16日第1刷発行
2008(平成20)年5月23日第4刷発行
底本の親本:「文芸倶楽部」
1902(明治35)年6月号
初出:「文芸倶楽部」
1902(明治35)年6月号
入力:川山隆
校正:noriko saito
2008年11月29日作成
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