っても旗本屋敷であるから、上《かみ》便所までゆくには長い縁側を通らなければならなかった。母は手燭も持たずに行くと、その帰り路に縁側のまん中あたりで、何かに摺れ違ったように感じた。暗い中であるから判らなかったが、なんだか女の髪にでも触れたように思われた。それと同時に、母は冷や水でも浴びせられたようにぞっとした。勿論、それだけのことで、ほかには何事もなかった。
 又、ある晩、庭さきで犬の吠える声がしきりにきこえた。あまりにそうぞうしいので、雨戸をあけてみると、隣家に住んでいる英国公使館の書記官マクラッチという人の飼犬が、わたしの家の庭にはいって来て無暗に吠えたけっているのであった。二月のことでまだ寒いような月のひかりが隈なく照り渡っていたが、そこには何の影もみえなかった。もしや賊でも忍び込んだのかと、念のために家内や庭内を詮索したが、どこにもそんな形跡は見いだされなかった。犬は夜のあけるまで吠えつづけているので、わたしの家でも迷惑した。
 あくる日、父がマクラッチ氏にその話をすると、同氏はひどく気の毒がっていた。しかし眉をひそめてこんなことを言った。
「わたくしの犬はなかなか利口な筈ですが、どうしてそんなに無暗に吠えましたか。」
 いくら利口だと思っても犬であるから、むやみに吠えないとも限らない、マクラッチも負け惜しみをいう奴だと思っていた。それからふた月ほど経って、この二合半坂に火事があって十軒ほども焼けた。わたしの家は類焼の難を免かれなかった。
 その頃はその辺にあき家が多かったので、わたしの一家は旧宅から一町とは距れないところに引き移って、ひとまずそこに落ち着いた。近所のことであるから、従来出入りの酒屋が引きつづいて御用を聞きに来ていた。
 その酒屋の御用聞きが或る時こんなことを言った。
「妙なことを伺うようですが、以前のお屋敷には別に変わったことはありませんでしたか。」
 女中は別に何事もなかったと答えると、かれは不思議そうな顔をして帰った。それが母の耳にはいったので、あくる日その御用聞きの来た時にだんだん詮議すると、わたしの旧宅はここらで名代の化物屋敷であることが判った。どういう仔細があるのか知らないが、その屋敷には昔から不思議のことがあって、奥には「入らずの間」があると伝えられている。維新の頃、それを貸家にするについて、入らずの間などがあっては借り手が付くま
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