論おどろいたが、相手も驚いたらしい。大きい鼻息をしたかと思うと、たちまちにひと声高く嘶いた。それがかの怪しい馬であると知ったときに、鉄作は気が遠くなるほどに驚いた。驚いたというよりも、怖ろしさがまた一倍で、彼はもう前後の考えもなく、捉《と》られている女の手を振払って、一目散にもと来た道へ逃げ出したが、暗いのと慌てたのとで方角をあやまって、かの陥し穽に転げ込んだのである。
そう判ってくると、騒ぎはいよいよ大きくなって、大勢は松明《たいまつ》をふり照らしてそこらを穿索すると、果して道のまん中に次郎兵衛後家のお福が正体もなく倒れていた。お福は介抱してももう生きなかった。横ざまに倒れたところを、かの馬の足で脇腹を強く踏まれたらしい。肋《あばら》の骨がみな踏み砕かれているのを見ても、かの馬がよほど巨大な動物であることが想像されて、人々は顔をみあわせた。
「次郎兵衛後家が海馬にふみ殺された。」
その噂が又ひろまって、人びとの好奇心は次第に恐怖心に変って来た。海馬だかなんだか知らないが、そんな巨大な怪物に出逢っては敵《かな》わないという恐怖心にとらわれて、その以来はかの馬狩りに加わる者がだんだんに減って来るようになった。暗い夜にはどこの家でも早く戸を閉じてしまった。怪しい馬は相変らず三日目か五日目には異様な嘶きを聞かせて、家々の飼馬をおびやかしていた。
「どうも不思議なことだな。しかし面白い。」と、その噂をきいた城中の若侍たちは言った。
前に言ったような事情で、かれらは何か事あれかしと待ち構えていたところである。その矢先へこんな風説が耳にはいっては猶予がならない。糟屋甚七、古河市五郎の二人は、すぐに多々良村へ出向いてその実否《じっぷ》を詮議すると、その風説に間違いはないと判った。
「もう三月ではないか。正月以来そんな不思議があったら、なぜ早く俺たちに訴えないのだ。」
二人はさらに隣り村へ行って、かの鉄作を詮議すると、彼はその後半月あまりも病人になっていたが、この頃はようよう元のからだに戻ったとのことで、甚七らの問いに対して何事も正直に答えた。しかし、自分の出逢った怪物がどんな物であったかを説明することは出来なかった。何分にも暗い夜といい、かつは不意の出来事であるので、半分は夢中でなんの記憶もないのであるが、それは普通の牛や馬よりも余ほど大きい物で、突きあたった一刹那《いっせつな》に感じたところでは、熊のような長い毛が一面に生えているらしかったというのである。
その以上のことは判らなかったが、ともかくも一種の怪獣があらわれて、家々の飼馬を恐れさせ、さらに次郎兵衛後家を踏み殺したというのは事実であることが確かめられたので、甚七と市五郎とは満足して引揚げた。城へ帰る途中で、甚七は言い出した。
「しかし貴公、この事をすぐにみんなに吹聴《ふいちょう》するか。」
「それを俺も考えているのだが、むやみに吹聴して大勢がわやわや付いて来られては困る。いっそ貴公とおれと二人でそっと行くことにしようではないか。」
いかなる場合にも人間には功名心《こうみょうしん》がある。甚七と市五郎も海馬探検の功名手柄を独り占めにしようという下心《したごころ》があるので、結局他の者どもを出しぬいて、二人が今夜ひそかに出て来ることに相談を決めた。
三月もなかば過ぎて、ここらの春は暖かであった。あたかもきょうは午後から薄陰りして、おそい桜が風のない夕《ゆうべ》にほろほろ散っていた。
「今夜はきっと出るぜ。」
二人は夜が来るのを待ちかねて、誘いあわせて城をぬけ出した。市五郎は鉄砲を用意して行こうかといったが、飛び道具をたずさえていると門検《もんあらた》めが面倒であるというので、甚七は反対した。二人はただ身軽に扮装《いでた》つだけのことにして、戌《いぬ》の刻《こく》を過ぎる頃から城下の村へ忍んで行くと、お誂《あつら》えむきの暗い夜で、今にも雨を運んで来そうな生温《なまぬる》い南風が彼らの頬をなでて通った。城下であるから附近の地理はふだんからよく知っている。殊に昼のうちにも大抵の見当は付けておいたので、二人は眼先もみえない夜道にも迷うことなしに、目的の場所へ行き着いた。
どこという確かな的《あて》もないが、怪しい馬は水から出て来るらしいというのを頼りに、二人は多々良川に近いところに陣取って、一本の大きい櫨《はじ》の木を小楯《こだて》に忍んでいると、やがて一|刻《とき》も過ぎたかと思われる頃に、どこからか大きい足音がきこえた。
「来たらしいぞ。」
二人は息をころして窺っていると、彼らの隠れ場所から十|間《けん》余りも距《はな》れたところに、一つの大きい黒い影の現れたのが水明かりでぼんやりと見えた。黒い影はにぶく動いて水にはいって行くらしかった。つづいて水を打つような音が幾
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