たびか聞えたので、甚七は市五郎にささやいた。
「水から出て来るのではない。水にはいるのだ。」
「どうも魚《さかな》を捕るらしいぞ。」
「馬が魚を食うかな。」
「それが少しおかしい。」
なおも油断なく窺っていると、黒い影は水から出て来て、暗い空にむかって高くいなないた。それを合図のように二人はつかつかと進み寄って、袖の下に隠していた火縄《ひなわ》を振り照らすと、その小さい火に対して相手は余りに大き過ぎるらしく、ただ真っ黒な物が眼のさきに突っ立っているだけで、その正体はよく判らなかった。それと同時に、その黒い影は蛍《ほたる》よりも淡い火のひかりを避けるように、体をひるがえして立去ろうとするのを、二人はつづいて追おうとすると、目先の方に気を取られて火縄をふる手が自然おろそかになったらしい。あたかも強く吹いて来る川風のために二つの火縄は消されてしまった。はっと思う間もなしに、市五郎は殴《はた》かれたか蹴られたか、声を立てずにその場に倒れた。
甚七はあわてて刀をぬいて、相手を斬るともなく、自分を防ぐともなく、半分は夢中で振廻すと、黒い影は彼をそのままにして静かに闇の奥に隠れて行った。甚七はまだ追おうとすると、わが足は倒れている市五郎につまずいて、これも暗いなかに倒れた。彼は起きかえりながら小声で呼んだ。
「市五郎、どうした。」
市五郎は答えないで、唯うめくばかりである。暗いのでよくは判らないが、彼は怪物のために手ひどい打撃を受けたらしい。こうなるとまず彼を介抱しなければならないと思ったので、甚七は暗いなかを叫びながら里の方へ走った。
「おい、おい。誰かいないか。」
馬狩りの群れはこの頃いちじるしく減ったのであるが、それでも強情に出ている者も二組ほどあった。その六、七人が甚七の声におどろかされて駈け集まって来た。相手が城内の侍とわかって、かれらはいよいよ驚いた。用意の松明に火をとぼして、市五郎の倒れている場所へかけ付けると、彼は鼻や口からおびただしい血を流して、上下の前歯が五本ほども折れていた。市五郎は怪物のために鼻や口を強く打たれたらしい。取りあえずそこから近い農家へ運び込んで、水や薬の応急手当を加えると、市五郎はようように正気づいたが、倒れるはずみに頭をも強く打ったらしく、容易に起き上がることは出来なかった。
これには甚七もひどく困った。城内へ帰って正直にそれを報告する時は、いかにも自分たちの武勇が足らないように思われるばかりか、無断で海馬探検などに出かけて来てこの失態を演じたとあっては、組頭《くみがしら》からどんなに叱られるか判らない。さりとて今さら仕様もないので、彼は市五郎の看護を他の人びとにたのんで、自分だけはひとまず城内へ戻ることにした。戻ると、果して散々《さんざん》の始末であった。
「お留守をうけたまわる身の上で、要もない悪戯《いたずら》をして朋輩を怪我人にするとは何のことだ。侍ひとりでも大切という今の場合を知らないか。」と、彼は組頭から厳しく叱られた。
「いったい我れわれを出し抜いて、自分たちばかりで手柄をしようとたくらむから悪いのだ。」と、彼は他の朋輩からも笑われた。
叱られたり笑われたりして、覚悟の上とはいいながら甚七も少しく取り逆上《のぼ》せたらしい。かれは危うく切腹しようとするところを、朋輩どもに支えられた。それを聞いて組頭はまた叱った。
「市五郎が怪我人となったさえあるに、甚七までが切腹してどうするのだ。他の者どもを案内して行って、早く市五郎を連れて帰れ。」
朋輩共も一旦は笑ったものの、ただ笑っていて済むわけのものではないので、組頭の指図にしたがって、十人はすぐに支度をして城を出た。甚七は無論その案内に立たされた。神原君の先祖の茂左衛門基治はその当時十九歳の若侍で、この一行に加わっていたのである。
その途中で年長《としかさ》の伊丹弥次兵衛がこんなことを言い出した。
「組頭はただ、古河市五郎を連れ帰れというだけの指図であったが、海馬の噂は我れわれも聞いている。そのままに捨てておいては、お家《いえ》の威光にかかわる事だ。殊に甚七と市五郎がかような不覚をはたらいたのを、唯そのままに致しておいては、他国ばかりでなく、御領内の民《たみ》百姓にまで嘲《あざけ》り笑わるる道理ではないか。まず市五郎の容態を見届けた上で、次第によっては我れわれもその馬狩りを企ててはどうだな。」
人びとは皆もっともと同意した。かれらが里に近づいた頃に、家々の飼馬は一度に狂い嘶いて、かの怪物がまだそこらに徘徊していることを教えたので、人々の気分はさらに緊張した。年の若い茂左衛門の血は沸いた。
三
古河市五郎が運び込まれたのは、かの次郎兵衛後家のお福の家であった。お福の家は母のおもよと貰い娘のおらちという今年十六の小娘
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