人々に対して、郵便で年頭の礼を述べるなどは、あるまじき事になっていたのであるから、総ての回礼者は下町から山の手、あるいは郡部にかけて、知人の戸別訪問をしなければならない。市内電車が初めて開通したのは明治三十六年の十一月であるが、それも半蔵門から数寄屋橋見附までと、神田|美土代町《みとしろちょう》から数寄屋橋までの二線に過ぎず、市内の全線が今日のように完備したのは大正の初年である。
 それであるから、人力車に乗れば格別、さもなければ徒歩のほかはない。正月は車代が高いのみならず、全市の車台の数も限られているのであるから、大抵の者は車に乗ることは出来ない。男も女も、老いたるも若きも、殆《ほとん》どみな徒歩である。今日ほどに人口が多くなかったにもせよ、東京に住むほどの者は一戸に少くも一人、多くは四人も五人も一度に出動するのであるから、往来の混雑は想像されるであろう。平生は人通りの少い屋敷町のようなところでも、春の初めには回礼者が袖をつらねてぞろぞろ[#「ぞろぞろ」に傍点]と通る。それが一種の奇観でもあり、また春らしい景色でもあった。
 日清戦争は明治二十七、八年であるが、二十八年の正月は戦時と
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