々に介抱して近所の辻番所へ連れて行くと、女房は幸いに正気に復《かえ》ったが、自分にもどうしたのかよくは判らない。ただ眼のさきへ大きい白い蝶が飛んで来たかと思うと、たちまち夢のような心持になってしまって、その後のことは何も知らないと云うのであった。
 以上は世間の噂話を聴いたに過ぎないので、幸之助もくわしい事実を知らないのであるが、ともかくも奇怪な白い蝶が闇夜にあらわれて、往来の人をおびやかしたという噂が彼の注意をひいたのである。その話を終った後に、彼は又云った。
「白い蝶の噂は京橋の実家に居るときから聴いて居りまして、八丁堀の役人たちも内々探索しているとか云うことでございましたが、こうしてみるとやはり本当かと思われます」
「本当でしょう」と、長八もうなずいた。「現にわたしの家《うち》の娘も見たと云います。あなたのお父さまの亡《な》くなられた晩にも、伜の長三郎がそれらしい物を見たとか云います。市川屋の職人も見たことがあると云う。一人ならず、幾人もの眼にかかった以上、それが跡方もないこととは云われますまい」
 とは云ったが、さてそれがどういう訳であるか、長八にも説明することは出来なかった。幸之助にも判らなかった。いわゆる理外の理で、広い世界にはこうした不思議もあり得ると信じていた此の時代の人々としては、強《し》いてその説明を試みようとはしなかったのである。なまじいに其の正体を見とどけようなどと企てると、黒沼伝兵衛のような奇禍に出逢わないとも限らない。触《さわ》らぬ神に祟《たた》り無しで、好んでそんな事件にかかり合うには及ばないと云うのが、長八の意見であった。
 彼はその意見に基づいて伜の長三郎を戒《いまし》めたが、今や幸之助に対しても同様の意見をほのめかして、若い侍の冒険めいた行動を暗に戒めると、幸之助もおとなしく聴いていた。
 幸之助が帰ったあとで、お北は父にささやいた。
「東青柳町にまた白い蝶々が出たそうですね」
「お前は立ち聴きをしていたのか」と、長八はすこしく機嫌を損じた。「立ち聴きなぞするのは良くないぞ」
 お北は顔を赤くして黙ってしまった。
 その翌夜は黒沼の逮夜《たいや》で、長八夫婦と長三郎は列席した。他にも十五、六人の客があったが、大抵の人は東青柳町の噂を聞き知っていた。そうして、それは切支丹《きりしたん》の魔法ではないかなどと説く者もあった。今夜の仏の死が奇怪な蝶に何かの関係を持っているらしくも思われるので、遺族の手前、その噂をするのを憚《はばか》りながらも、奇を好む人情から何かとその話が繰り返された。父からきびしく叱られているのと、また二つには若年者《じゃくねんもの》の遠慮があるので、長三郎は終始だまっていたが、諸人のうわさ話を一々聞き洩らすまいとするように、彼は絶えずその耳を働かせていた。
 それから半月余りは何事もなくて過ぎた。二月に入っていよいよ暖かい日がつづいて、ほんとうの蝶もやがて飛び出しそうな陽気になった。その十二日の午《ひる》過ぎに、長三郎は父の使で牛込まで出て行ったが、先方で少しく暇取って、帰る頃には此の頃の春の日ももう暮れかかっていた。江戸川橋の袂まで来かかると、彼は草履の緒を踏み切った。
 自分の家まではさして遠くもないのであるが、そのままで歩くのは不便であるので、長三郎は橋の欄干《らんかん》に身を寄せながら、懐紙《かいし》を小撚《こよ》りにして鼻緒をすげ換えていると、耳の端《はた》で人の声がきこえた。それが何だか聞き覚えのあるように思われたので、長三郎は俯向いている顔をあげると、二人の男が音羽の方向へむかって、なにか話しながら通り過ぎるのであった。ひとりは屋敷の中間《ちゅうげん》である。他のひとりは町人ふうの痩形《やせがた》の男であった。どちらもうしろ姿を見ただけでは、それが何者であるかを知ることは出来なかった。その一刹那に長三郎はふと思い出した。
「あ、あの時の声だ」
 黒沼伝兵衛の死を報告するために、暗やみを駈けてゆく途中で突きあたった男――その疑問の男の声が確かにそれであったことを思い出して、長三郎の胸は怪しく跳《おど》った。
 二人はもう行き過ぎた後であるので、それが中間の声か、町人の声か、その判断は出来なかったが、ともかくも彼等のひとりが其の夜の男に相違ないと、彼は思った。しかも彼はあいにくに草履の鼻緒をすげているので、直ぐにその跡を尾《つ》けて行くことも出来なかった。長三郎が焦《じ》れて舌打ちしている間《ひま》に、二人は見返りもせずに橋を渡り過ぎた。
 急いで鼻緒をすげてしまった頃には、二人のうしろ影はもう小半丁も遠くなっているのを、見失うまいと眼を配《くば》りながら、長三郎は足早に追って行った。音羽の大通りへ出て、九丁目の角へ来かかると、ひとりの女が人待ち顔にたたずんでいた。彼女は長三郎を待っていたらしく、その姿をみると小走りに寄って来たので、長三郎は思わず立ちどまった。女は火の番の娘お冬であった。
「先日は失礼をいたしました」と、お冬は小声で挨拶した。
 そうして、うしろの横町を無言で指さした。その意味がわからないので、長三郎も無言でその指さす方角をながめると、横町の寺の門に立っている男と女のすがたが見えた。
 まだ暮れ切らないので、ふたりの姿は遠目にも大かたは認められたが、男はかの黒沼幸之助で、女は自分の姉のお北であることを知った時に、長三郎は一種の不安を感じて無意識にふた足三足あるき出しながら、更に横町の二人を透かし視た。
 幸之助と姉とは今頃どうして其処らに徘徊しているのであろう。途中で偶然に行きあって何かの立ち話をしているのか。あるいは約束の上でそこに待ち合わせていたのか。前者ならば別に仔細もないが、後者ならば容易ならぬ事である。幸之助は黒沼家の婿養子となって、いまだ祝言《しゅうげん》の式さえ挙げないが、お勝という定まった妻のある身の上である。その幸之助と自分の姉とが密会《みっかい》する――万一それが事実であって、その噂が世間にきこえたならば、二人は一体どうなることだろう。いずれにしても一と騒動はまぬがれまい。
 それを考えながら、長三郎は暫く遠目に眺めていると、お冬は訴えるように又ささやいた。
「あのおふたりは、このごろ時々に……」
「きょうばかりでは無いのか」と、長三郎はいよいよ不安らしく訊《き》いた。
 お冬はうなずいた。ゆうぐれの寒さが身にしみたように、長三郎はぞっ[#「ぞっ」に傍点]とした。自分は中間と町人のあとを尾《つ》けて来たのであるが、長三郎はもうそんな事は忘れてしまったように猶も横町をながめていると、その思案の顔に鬢《びん》のおくれ毛のほつれかかって、ゆう風に軽くそよいでいるのを、お冬は心ありげに見つめていた。
 目白の不動堂で暮れ六ツの鐘を撞《つ》き出したので、それに驚かされたように、幸之助とお北の影は離れた。男を残してお北ひとりは足早に引っ返して来るらしいので、姉に見付けられるのを恐れるように、長三郎もおなじく足早にここを立ち去った。

     六

「考えると、不審のことが無いでもない」
 長三郎は家《うち》へかえってから又かんがえた。黒沼の娘お勝はまだ全快しないで、その後も引きつづいて枕に就《つ》いている。その見舞ながらに、姉のお北は殆ど毎日たずねて行く。勿論、隣家でもあり、ふだんから特別に懇意にしているのであるから、父も母も長三郎も別に不思議とも思わなかったのであるが、こうなると、お北が毎日の見舞もほかに意味があるらしく推量されないことも無い。
 婿に来たとは云うものの、お勝が病気のために、幸之助はまだ祝言の式を挙げていない。そこへ姉が毎日入り込んで、幸之助と親しくする。しかもお冬の訴えによれば、ふたりは時々に目白坂下の寺門前で会合すると云う。それらの事情をあわせて考えると、一種の疑いがいよいよ色濃くなる。姉に限って、まさかにそんな事はと打ち消しながらも、長三郎は全然それを否定するわけには行かなくなった。
 さりとて、父や母にむかって迂闊《うかつ》にそれを口外することは出来ない。いずれにしても更に真偽を確かめる必要があると思ったので、長三郎はきょうの発見についていっさい沈黙を守ることにした。お北もやがてあとから帰って来た。その話によると、音羽の大通りまで買物に出たのだと云うことであった。
 音羽の通りへ買物に出たものが、横町の寺門前までわざわざ廻って行く筈がない。そんな嘘をつく以上は、姉の行動はいよいよ怪しいと、長三郎は思った。
 それから二、三日の後である。長三郎が夕飯をすませてから、いつもの如くに夜学に出ると、四、五間さきをゆく男のうしろ姿が隣家の黒沼幸之助であることを、薄月のひかりで認めた。彼はどこへ行くのであろう。又もや姉を誘い出して、かの寺門前で密会《みっかい》するのではあるまいかと思うと、長三郎はそのあとを尾《つ》けてゆく気になった。彼は草履の音を忍ばせて、ひそかに幸之助の影を追ってゆくと、その影はかの横町の方角へはむかわずに、路ばたの狭い露路にはいった。
 露路の奥には火の番の藤助の家がある。彼はその家をたずねるのか、それとも他の家をたずねるのか、長三郎は更に又新らしい興味に駆られて、つづいて露路のなかへ踏み込んだ。先日一度たずねた事があるので、長三郎は先ず藤助の家のまえに忍び寄って内の様子を窺うと、故意か偶然か、行燈《あんどう》の火は消えて一面の闇である。その暗いなかで女の声がきこえた。
 それがお冬の声でないことを知った時に、長三郎はまた不思議に思った。女の声は低かったが、それでも力がこもっているので、外で聴いている者の耳にも切れぎれに響いた。
「あなたのような不人情な人はない、覚えておいでなさいよ」
 幸之助は何かなだめているらしかったが、その声はあまりに低いので聴き取れなかった。暫くして女の声がまた聞こえた。
「忌《いや》です、いやです。……もういつまでも瞞《だま》されちゃあいません。いいえ、いけません。あなたのような人は……。いいえ、忌です。唯は置かないから、覚悟しておいでなさい。……わたしは死んでも構わない。……あなたもきっと殺してやるから……」
 長三郎はおどろいた。その女はいったい何者で、幸之助になんの恨みを云っているのか。彼は息をつめて聴いていると女は嚇《おど》すように又云った。
「わたしの口ひとつで、あなたの命は無いと云う事は、かねて承知の筈じゃあありませんか。……黒沼家へ養子に行ったのは、まあ仕方がないとしても……。隣りの娘とまで仲よくして……。いいえ、知っています」
 幸之助は又もや何か云い訳をしているらしかったが、やはり表までは洩れきこえなかった。長三郎はすこしく焦《じ》れて、縁に近いところまでひと足ふた足進み寄ろうとする時に、うす暗い蔭からその袂をひく者があった。ぎょっ[#「ぎょっ」に傍点]として見かえると、それはお冬であるらしかった。
「およしなさい」と、女は小声で云った。
 それは果たしてお冬であった。
 不意に声をかけられて長三郎もやや躊躇していると、暗い家のなかでは人の動くような音がきこえた。お冬は再び長三郎の袖をつかんで、無理に引き戻すように桃の木のかげへ連れ込むと、何者かが縁さきへ出て来た。暗いなかでも見当が付いているらしく、直ぐに下駄を穿《は》いて表へ出てゆく姿を薄月に透かして視ると、それはすっきりとした痩形の女であった。この女が幸之助を恨み、幸之助を嚇《おど》していたのかと思ううちに、その姿は露路の外へ幽霊のように消えてしまった。
 長三郎もお冬も無言でそれを見送っているうちに、やがて又静かに縁を降りて来る者があった。それは幸之助で、なにか思案《しあん》しているような足取りで、力なげに表へ出て行くのを、長三郎は殆ど無意識に尾《つ》けて行こうとすると、お冬は又ひきとめた。
「およしなさい」
 なぜ止めるのか、長三郎には判らなかった。それを諭《さと》すように、お冬はささやいた。
「あの人たちは怖い人です」
 なぜ怖いのか、長三郎にはやはり判らなかった。しかし、かの女
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