「遺わして」]藤助の在否をさぐらせたが、彼はゆうべから戻らないと云うので、むなしく引っ返して来た。
「どうもおかしいな」
長八はきょうもそれを云い出した。伝兵衛の葬式《とむらい》を済ませた翌日の朝である。かの一件以来、寒い風が意地悪く毎日吹きつづけていたのであるが、けさはその風も吹きやんで俄かに春めいた空となった。長八が自慢で飼っている鶯も、朝から籠のなかで啼いていた。
「もう一度、行ってみましょうか」と、長三郎は父の顔色をうかがいながら云った。
「むむ。あの晩ぎりで、藤助のゆくえが知れないと云うのは、どう考えてもおかしい。あいつも殺されたのかな」
「さあ」と、長三郎もかんがえた。「殺されたのでしょうか」
「殺されたかも知れないぞ」
「それならば、どこからか死骸が出そうなものですが……」
「それもそうだな……。といって、仔細もなしに姿を隠す筈もあるまい。係り合いを恐れたかな」
黒沼伝兵衛の横死について、自分もその場に居合わせた関係上、なにかの係り合いになることを恐れて逃げ去ったかとも思われるが、自分ひとりでなく、その場には長三郎も立ち会っていたのであるから、我が身に曇りのない申し開きは出来る筈である。女子供では無し、分別《ふんべつ》盛りの四十男がそれだけの事で姿を隠そうとも思われないが、案外の小胆者で唯|一途《いちず》に恐怖を感じたのかも知れない。いずれにしても、もう一度詮議して置く必要があると、長八は思った。
「では、行って見て来い。やはり帰っていないようであったら、近所の者にも訊《き》いてみろ。だが、よく気をつけてこちらの秘密を覚られるなよ」
「承知しました」
長三郎はすぐに表へ出てゆくと、一月末の空はいよいようららかに晴れて、護国寺の森のこずえは薄紅《うすあか》く霞んでいた。音羽の通りへ出ると、市川屋の職人源蔵に逢った。
「黒沼の旦那様は飛んだことでございましたね」と、源蔵は挨拶をした。
「丁度いい所でおまえに逢った。火の番の藤助はこの頃どうしているね」と、長三郎は何げなく訊いた。
「いや、それが不思議で、この廿日正月の晩から行くえが知れなくなってしまったのです。近所でも心配しているんですが、まだ判りません」
火の番はいわゆる番太郎で、普通は自身番の隣りに住んで荒物屋などを開いているのであるが、この町の火の番は露路《ろじ》のなかに住んでいた。藤助も以前は表通りに小さい店を持っていたのであるが、三年前に女房に死に別れて、店のあきないをする者がなくなったので、町内の人々の諒解を得て、店は他人にゆずり自分は露路の奥に引っ込んで、やはり町内の雑用《ぞうよう》を勤めているのであった。
「藤助には娘があったね」と、長三郎は又訊いた。
「お冬という娘がございます」と、源蔵はうなずいた。「明けて十五で、人間もおとなしく、容貌《きりょう》もまんざらでないんですが、可哀そうに、子供の時に疱瘡《ほうそう》が眼に入ったもんですから、右の片眼が見えなくなってしまいました」
「その娘も心配しているだろうね」
「もちろん心配して、お神籤《みくじ》を引いたり、占《うらな》いに見て貰ったりしているんですが、どうもはっきりした事は判らないようです」
これだけ聞けば、その上に詮議の仕様もないように思われたが、ともかくも藤助の家の様子を一応は見とどけて帰ろうと思い直して、長三郎はその案内をたのむと、源蔵は先きに立って自身番に近い露路のなかへはいった。長三郎もあとに付いて、昼でも薄暗いような露路の溝板《どぶいた》を踏んで行った。
露路の入口は狭いが、奥には可なりに広いあき地があって、ここら特有の紙漉場《かみすきば》なども見えた。藤助の家にも小さい庭があって、桃の木が一本立っていた。
「ふうちゃん、居るかえ」
源蔵は表から声をかけたが、内には返事が無かった。三度つづけて呼ぶうちに、その声を聞きつけて、裏の井戸端からお冬が濡れ手を前垂れで拭きながら出て来た。
お冬は十五にしては大柄の方で、源蔵の云った通り、容貌はまず十人並み以上の色白の娘であった。右の眼に故障があるか無いかは、長三郎にはよく判らなかった。
「お父《とっ》さんのたよりはまだ知れないかえ」と、源蔵は縁に腰をかけて訊いた。
お冬は無言で悲しそうにうなずいたが、源蔵のうしろに立っている前髪の侍をちらりと視たときに、彼女は慌てたように眼を伏せた。
「この若旦那は瓜生さんと仰しゃって、このあいだ亡《な》くなった黒沼さんのお屋敷の隣りにいらっしゃるのだ」と、源蔵はあらためて長三郎を紹介した。「お前のお父さんに逢って、なにか訊きたいことがあると云うので、ここへ御案内して来たんだが、お父さんがまだ帰らねえじゃあ仕様がねえな」
お冬はやはり俯向《うつむ》いて黙っていた。藪うぐいすか籠の鶯か、ここでも遠く啼く声がきこえた。江戸といっても、ここらの春はのどかである。紙漉場の空地《あきち》には、子どもの小さい凧が一つあがっていた。それを見かえりながら、源蔵は又云い出した。
「だが、まあ、そのうちにはなんとか判るだろう。神隠しに逢ったにしても、大抵は十日か半月で帰って来るものだ。あんまり苦《く》にしねえがいい」
こんなひと通りの気休めで満足したかどうだか知らないが、お冬はやはり黙っていた。そうして時々、若い侍の顔をぬすみ視ているらしいのが源蔵の注意をひいた。
「ふうちゃん。煙草の火はねえかえ」
お冬は気がついたように立ち上がって、煙草盆に消し炭の火を入れて来ると、源蔵は腰から筒ざしの煙草入れを取り出して、一服|喫《す》いはじめた。
五
ともかく藤助一家の様子を見届けて、もう此の上に詮議の仕様もないと思い切った長三郎は、源蔵を眼でうながして行きかかると、源蔵も早々に煙草入れをしまって立ち上がった。
「じゃあ、ふうちゃん、又来るからな」
お冬はやはり無言で会釈《えしゃく》した。唖でも無いのになぜ終始黙っているのかと、長三郎はすこし不審に思ったが、深くも気に留めずに表へ出ると、源蔵もつづいて出て来た。
「まったくあの娘も可哀そうですよ」
「そうだな」と、長三郎も同情するように云った。
「なにかまだほかに御用は……」と、源蔵は訊いた。
「いや、わたしももう帰る。忙がしいところを気の毒だったな」
「いえ、なに……。わたくし共の店も此の頃は閑《ひま》ですから、毎日ぶらぶら遊んでいます。忙がしいのは暮の内で、正月になると仕事はありません」
「そうだろうな」
云いかけて、ふと見かえると、露路の入口にはお冬が立っていた。
彼女は濡れた前垂れの端《はし》を口にくわえながら、その片眼に何かの意味を含んでいるように、こちらをじっと窺っているらしかった。源蔵も気がついて見返ったが、別になんにも云わなかった。二人が道のまん中で別れるのを、お冬は暫く見送っていたが、やがて足早に引っ返して露路へはいった。
長三郎は家《うち》へ帰って、ありのままに報告すると、父の長八は唯だまってうなずいていた。この上は藤助が果たして何者かに殺されたのか、あるいは無事に何処からか現われて来るか、自然にその消息の知れるのを待つほかは無かった。長八は伜に注意して、今後も油断なく藤助の安否を探れと云い聞かせて置いた。
ことし十五歳で、まだ部屋住みの長三郎は、玄関に近い三畳の狭い部屋に机を控えていた。父の前をさがって、自分の部屋に帰って、彼は再び藤助の身の上について考えた。
藤助は生きているか、死んでしまったか。それにつけて思い出されるのは、当夜の彼の行動である。自分の近所に住んでいる御賄組の武士《さむらい》が怪しい変死を遂げたのを見て、火の番の彼は当然おどろき騒ぐべき筈であるのに、案外に彼は落ち着いていた。落ち着いていたと云うよりも、むしろ冷淡であるようにも見えた。長三郎が焦《じ》れて指図するので、彼はよんどころ無しに働いているようにも見えた。これには何かの仔細があるのではないかと、長三郎は考えた。
彼は長三郎に追い立てられて、渋々ながら医者を呼びに行った。その帰り路にゆくえ不明となったのである。そのほかにも、暗いなかで長三郎に突き当たって、声をかけた者がある。彼は何者であろうか。心が急《せ》くので碌々に返事もせずに別れてしまったが、彼もこの事件に何かの関係のある者ではあるまいか。あるいは彼が藤助を捕えて行ったのか、あるいは藤助を殺して、その死骸をどこへか隠したのかと、長三郎はまた考えた。しかも暗がりの出来事であるから、その相手の人相や風俗はちっとも判らなかった。
黒沼伝兵衛の死――藤助のゆくえ不明――暗がりの怪しい男――この三つを一つに結びつけていろいろ考えたが、何分にも世故《せこ》の経験に乏しい長三郎の頭脳《あたま》では、その謎を解くべき端緒《たんちょ》を見いだし得なかった。
ひる過ぎになって、となり屋敷の黒沼幸之助が来た。
「このたびは一方《ひとかた》ならぬ御厄介に相成りまして、なんともお礼の申し上げようもございません」と、彼は長八に対して丁寧に挨拶した。
同じ組の者は他に幾人もあるが、瓜生家とは隣り同士でもあり、多年特別に懇意にしていた関係上、今度の一件について長八が最も尽力したのは事実であった。
「いや、あなたこそ何かとお疲れでしたろう」と、長八も会釈した。
どこの家でも葬式などは面倒なものである。まして急養子の身の上で、家内の勝手もわからず、組内の人々の顔さえも碌々に知らない幸之助が、一倍の気苦労をしたことはよく察せられるので、長八もその点には同情していた。お疲れでしたと云う言葉も、形式一遍の挨拶ではなかった。
「ありがとうございます。おかげさまで、どうにかとどこおりなく片付きました」と、幸之助はふたたび挨拶をした。
「そこで、御新造は……」
「まだ臥《ふ》せって居ります」
お勝は病中であるにも拘らず、父の急変におどろかされて、母と共に現場へ駈け着けたばかりか、その翌日も無理に起きていたので、病気はいよいよ重くなった。彼女は母のお富と、新らしい婿の幸之助とに看病されて、その後も床に就いているのである。彼女は父の葬式に列《つら》なることも出来なかった。葬式やら、病人やら、黒沼家の混雑は思いやられて、長八はますます同情に堪えなかった。
「就きましては、明日は初七日《しょなのか》の逮夜《たいや》に相当いたしますので、心ばかりの仏事を営みたいと存じます。御迷惑でもございましょうが、御夫婦と御子息に御列席を願いたいのでございますが……」
「いや、それは御丁寧に恐れ入ります。一同かならず御焼香《ごしょうこう》に罷《まか》り出でます」と、長八は答えた。
これで正式の挨拶も終ったところへ、娘のお北が茶を運んで来た。まだ馴染《なじみ》の浅い仲とはいいながら、客と主人はやや打ち解けて話し出した。
「御承知でございますか。護国寺前の一件を……」と、幸之助はお北のうしろ姿を見送りながら少しく声を低めた。
「護国寺前……。何事か、一向に知りません」と、長八は茶を喫《の》みながら云った。「白い蝶でも又出ましたか」
「そうでございます」と、幸之助はうなずいた。
「え、ほんとうに出ましたか、白い蝶が……」
「護国寺前……東|青柳町《あおやぎちょう》に野上佐太夫というお旗本がありますそうで……。わたくしは昨今こちらへ参りましたのでよくは存じませんが、三百石取りのお屋敷だとか承わりました。昨夜の五ツ過ぎに、大塚|仲町《なかまち》辺の町家の者が二人連れで、その御門前を通りかかりますと、例の白い蝶に出逢いましたそうで……」
「ふうむ」
長八は唸るような溜め息をつきながら、相手の顔をながめていると、幸之助は更に説明した。
その二人連れは大塚仲町の越後屋という米屋の女房と小僧で、かの野上の屋敷の門前を通り過ぎようとする時に、暗闇のなかから一羽の蝶が飛び出した。そうしてひらひらと女房の眼のさきへ舞って来ると、女房は声も立てずに其の場に悶絶《もんぜつ》した。小僧は途方に暮れてうろうろしている処へ、幸いに通り合わせた人があったので、共
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