憚るので、なんにも口を利かなかったが、その無言の争いのうちに兄はいよいよ決心のほぞをかためて、阿修羅をほろぼす帝釈となった。兄は両手で妹の喉を絞めた。
それを窺っていたのは、藤助であった。彼は吉五郎らに追われて、墓場の奥に逃げ込んだが、留吉が途中で倒れた為に長追いをしないと見て、そっと庫裏《くり》へまわって、寺男に縄を解かせた。しかも迂闊《うかつ》に表へ出るのは危険であるので、今夜は寺内に泊めて貰うことにした。自分ばかりでなく、手先も今夜ここに泊まることになったと云うので、彼は一種の不安を感じて、夜なかに庭さきへ様子を窺いに来ると、あたかもお近が最期《さいご》の場所へ行き合わせた。
住職に対する同情か、或いはこれを枷《かせ》にして今後の飲み代《しろ》をいたぶるつもりか、彼は死骸の始末を自分に任せてくれと云って、佐藤の屋敷から中間の鉄造を呼んで来た。お近の死骸は風の吹く真夜中に運び出されて、江戸川に沈められた。藤助は黒沼伝兵衛の横死以来、わが家に住むことの危険をさとって、ゆくえ不明と見せかけて、実は佐藤の屋敷に身をひそめていたのである。
祐道の陳述はこれで終った。次の問題はお北がどうして入水《じゅすい》したかと云うことである。果たして自殺か、あるいは他殺か、いずれにしても、黒沼幸之助が唯一の関係者として厳重に吟味されたが、幸之助もそれに就いては何事も知らないと云い切った。ただ、お近が殺される日の夕刻、お北は夕飯を運んで来た女中の隙をみて、土蔵をぬけ出したことだけは知っていると申し立てた。
さらに探索すると、市川屋の職人源蔵も最初は隠していたが、その後の申し立てによると、お北は佐藤の屋敷をぬけ出したものの、直ぐに我が家へも帰られず、途中でうろうろしている時、あたかも彼《か》の源蔵に出逢って、隣家のお勝が自害のことを聞いたと云う。それに因って推察すると、お北はおのれの罪を悔いたか、或いはしょせん無事に済まぬと覚悟して、其処らをさまよい歩いた後、夜に入るを待って入水したのであろう。地理の関係とは云いながら、恋のかたきのお近もお北も、その死骸を同じ流れに浮かべたのは、何かの因縁であるかとも思われた。
向島の植木屋五兵衛は、親の代から佐藤と吉田の屋敷に出入りの職人である。この頃は町方の手が廻ったらしいので、白蝶の一件は暫く中止するように幸之助は注意したが、中途で止めては心願《しんがん》が破れると云ってお近は承知しないばかりか、却って幸之助に迫って、お冬らの警戒を命じた。寺門前で藤助を救った覆面の曲者は幸之助であった。しかも気の弱い彼は、いつまでもお近に脅迫されて、こんな仕事にかかり合っているに堪えられなくなったので、その夜のうちに音羽を立ち去って、夜ふけに白魚河岸の実家の門《かど》を叩くと、父の幸右衛門は一切の事情を聞いて、この上はこの屋敷に一と晩も泊めることはならぬ、おれにも考えがあるから、ともかくも向島の五兵衛の家《うち》へ行っていろと指図した。その指図通りに向島へゆくと、あくる日の夕方に今井理右衛門が来た。つづいて瓜生長三郎が来た。岡っ引の吉五郎と兼松が来た。お冬の死と共に、幸之助の運命もここに定まったのである。
佐藤孫四郎がなぜ自滅したか、この謎は遂に解けなかったが、それに就いて、幸之助はこんなことを洩らした。
「お近はわたくしに向かって、佐藤は長崎にいるあいだにいろいろの悪いことをしている。それをわたしは皆んな知っているから、わたしがどんな我が儘をしても、佐藤は何んとも云うことが出来ない筈だと申したことがございます」
佐藤は長崎に出役中、役向きのことに就いて何かの不正事件があったらしい。貧乏旗本の彼が内福になったと云うのも、その間の消息を語っている。お近はその秘密を掴んでいるので、佐藤の屋敷内では思うがままに振舞っていたらしい。今度の事件に関連して、その不正が発覚《はっかく》するのを恐れて、佐藤は自滅したのではないかと察せられた。
火の番の藤助は再び行くえ不明となった。彼を召捕ったならば、事件の真相が更に明瞭になるだろうと、吉五郎らもさまざまに手をまわして探索したが、遂になんの手がかりも無かった。それから三月ほどの後に、八王子の山のなかで彼に似たような縊死者を発見したが、死体はもう腐爛しているので、その人相もはっきりとは判らなかった。八王子は藤助の故郷であるが、どこへも尋ねて行ったという噂はきこえなかった。あるいは何かの係り合いになるのを嫌って、どこでも口を閉じていたのかも知れない。
この事件の探索に主として働いた岡っ引の吉五郎は、わたしが「半七捕物帳」でしばしば紹介した彼《か》の半七老人の養父である。
底本:「時代推理小説 半七捕物帳(六)」光文社文庫、光文社
1986(昭和61)年12月20日初版1刷発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:tatsuki
校正:おのしげひこ
2000年2月10日公開
2004年3月1日修正
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