た。
「見付からない」
「教えてあげましょうか」
「おまえは知っているのか」
「知っています」
「ほんとうに知っているのか……。教えてくれ」と、長三郎は疑うように訊いた。
「あなたの探している人は……。御近所にかくれています」
「近所とは……。どこだ」
「佐藤さまのお屋敷に……」と、お冬は左右を見かえりながら声を低めた。
「佐藤……孫四郎殿か」と、長三郎は意外らしく訊き返した。「どうして知っている」
 それにはお冬も答えないので、長三郎は摺り寄って又訊いた。
「そこには幸之助と……。まだほかにも隠れているのか」
 自分の姉の名をあらわに云い出し兼ねて、長三郎は探るようにこう訊くと、お冬は頭《かぶり》をふった。
「いいえ、黒沼のお婿さんだけです」
 長三郎は失望した。勿論、幸之助の詮議も必要であるが、さしあたりは姉のゆくえを探しあてるのが自分の役目である。その姉は佐藤の屋敷にいないと聞いて、彼は折角の手がかりを失ったようにおもった。それでも再び念を押した。
「黒沼幸之助だけは確かに佐藤の屋敷に忍んでいるな」
「はい」
 長三郎は焦《じ》れて来たので、とうとう姉の名を口にした。
「わたしの姉のお北は一緒にいないのか」
「おあねえさんは御一緒じゃありません」
「姉の居どころをおまえは知らないか」
 お冬は又だまってしまった。あくまでも焦らされているように思われて、年の若い長三郎は苛々《いらいら》した。
「これ、正直に教えてくれ。頼む」
「お頼みですか」
「頼む、頼む」と、長三郎は口早に云った。
「わたくしもお頼み申したいことがありますが……」と、お冬は自分の顔を男の頬へ摺り付けるようにして、訴えるようにささやいた。
 もうこうなっては前後を省《かえり》みる暇もないので、長三郎は素直に答えた。
「おまえの頼むこと……。なんでも肯《き》いてやる。早く教えてくれ」
「では、一緒においでなさい」と、お冬は立ち上がった。
 彼女はやはり男の手を掴んで放さなかった。
 この上は彼女の心のままに引き摺られて行くのほかは無いので、長三郎も無言で歩み出した時、宵からの生《なま》あたたかい風が往来の砂をまいてどっと吹き付けた。その砂を顔に浴びて、男も女もあわてて両袖を掩《おお》ったので、繋がっている手と手が自然に離れた。長三郎の持っている提灯の火もあやうく吹き消されそうになった。
 その風のうちに、お冬はなんの音を聞いたのか、俄かにうしろを見返ったかと思うと、長三郎のそばを颯《さっ》と離れて、橋を南へむかって飛鳥のごとくに駈け去った。取り残された長三郎は呆気《あっけ》に取られて、再びそれを追い捕える気力もなく、唯ぼんやりと其のゆくえを眺めていると、やがて草履の音が北の方から近づいて、頬かむりをした男がうしろから彼に声をかけた。
「あなたはあの女とお知合いでございますか」
 相手が何者か判らないので、長三郎は突っ立ったまま睨んでいると、男は頬かむりの手拭を取って丁寧に会釈《えしゃく》した。
「わたくしは神田の三河町に居りまして、お上《かみ》の御用を勤めている吉五郎という者でございます。失礼ながらあなたは……」
 長三郎も黙っていられなくなった。
「わたしは音羽の御賄屋敷にいる瓜生長三郎……」
「はあ、瓜生さんの御子息でございましたか」
 丁度いい人に出逢ったと云うように、吉五郎は馴れなれしく摺り寄って来た。
「あの女は音羽の火の番の娘じゃございませんか」
 長三郎はうなずいた。
「御近所ですから、前から御存じなんでしょうな」と、吉五郎はまた訊いた。
「知っています」
「そこで、くどくおたずね申すようですが、今ここでどんなお話をなすったんでしょう。いや、こんなことを申し上げてはたいへん失礼でございますが、これも御用とおぼしめして御勘弁をねがいます。実は先刻あの女を取り押さえて、少々取り調べて居ります処へ、思いもよらない邪魔がはいりまして……」
 云いかけた時に、強い南風《みなみ》が又もやどっと吹き寄せて来て、二人の顔をそむけさせたが、その風のなかで何を見付けたのか、吉五郎はあわててふた足三足かけ出した。一羽の白い蝶が風に吹き揚げられたように、地を離れてひらひらと空を舞って行くのである。長三郎もそれを見つけて、思わずあっ[#「あっ」に傍点]と声をあげた。
「若旦那。つかまえて下さい」
 吉五郎はすぐに蝶を追った。長三郎も一緒に追った。しかも、あいにくに強い風が又吹き付けたので、蝶は橋の上から斜めに飛んで、川の上に吹きやられてしまった。
「水に落ちたかな」と、長三郎は提灯をかざしながら、残念そうに云った。
「そうでしょう。川の方へ吹き飛ばされちゃあ仕様がありません」と、吉五郎も残念そうに水の上を覗いていた。「しかし若旦那。あなたは何か御覧になりませんでしたか」
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