「なにを見たかと云うのだ」
「あの蝶々の飛んで行くときに、何か御覧になりませんでしたか」
「いや、別に……」
「そうでしたか」と、吉五郎は微笑みながらうなずいた。
その一刹那に、長三郎はふと心付いた。怪しい蝶はよそから飛んで来たのでなく、そこらの地面から吹き揚げられたらしい。暗いなかで不意に起こったことであるから、もちろん確かには判らないが、地に落ちていた蝶が強い風のために空中へ吹き揚げられたのではあるまいか。生きた蝶か死んだ蝶か。あるいはお冬が怪しい蝶を袂にでも忍ばせていて、故意か偶然に落として行ったのではあるまいか。その疑いを解こうとして、彼は更に訊き返した。
「おまえは何か見たのか」
「いや、別に……」と、吉五郎は笑っていた。
自分の返事を鸚鵡《おうむ》[#ルビの「おうむ」は底本では「おおむ」]返しにして、冷やかに笑っているような岡っ引の態度を、長三郎は小面《こづら》が憎いようにも思った。彼は何をか見付けたに相違ない。そうして、意地わるく秘《かく》しているのである。秘されるほど聞きたがるのが人情であるのに、まして今の場合、長三郎はあくまでもその秘密を探り知りたいので、忌々《いまいま》しいのを堪《こら》えながらおとなしく訊《き》いた。
「おまえは何か見たらしい。見たなら見たと云って正直に教えてくれ。わたしもあの蝶々について詮議をしているのだから……」
「そうですか」と、吉五郎はすこし考えながら答えた。「折角ですが、それは申し上げられません。あなたも御覧になったのなら格別、わたくしの口からは申されません。こう申したら、定めて意地のわるい奴だとおぼしめすかも知れませんが、御用を勤めている者はみんなそうです。そこで、あなたはどういうわけで、あの蝶々を御詮議なさるんです」
「別にどうと云うこともないが、このごろ世間で評判が高いから……」
「唯それだけの事でございますか」と、吉五郎は相手の顔色をうかがいながら云った。「まだほかに、何か仔細があるのじゃあございませんか」
「ほかに仔細はない」と、長三郎は強く云い切った。
「仔細がなければよろしいのですが……」と、吉五郎は又もや意味ありげに云った。「時におあねえ様はもうお屋敷へお帰りになりましたか」
長三郎はぎょっ[#「ぎょっ」に傍点]とした。さすがは商売だけに、岡っ引は早くも姉の家出を知っているのである。さてその返答をどうしたものかと、彼も即座《そくざ》の思案に迷っていると、吉五郎は諭《さと》すように云った。
「若旦那。わたくしは大抵のことを知っています。蝶々のことも大抵は見当が付きました。やっぱりわたくしの鑑定通りでした。近いうちにきっと埒《らち》をあけてお目にかけます。おあねえ様の御安否もやがて判りましょう。御姉弟《ごきょうだい》のことですから、おあねえ様のゆくえをお探しなさるのはあなたの御料簡次第ですが、蝶々の一件はあなた方がお手出しをなさらずに、どうぞわたくし共にお任せください。素人《しろうと》がたに荒らされると、かえって仕事が面倒になりますから……。お父《とう》さまにもよくそう仰しゃって下さい」
こうなると、多年の功を積んだ岡っ引と、前髪のある若侍とは、まったく相撲にならないのは判り切っているので、長三郎も意地を張るわけには行かなくなった。
「おまえは姉のありかを知っているのか」
「それは存じません。しかし探索の糸を手繰《たぐ》って行けば、自然に判ることだと思います。もし知れましたらば早速におしらせ申します。自分の手柄をするばかりが能じゃあありません。お屋敷の御迷惑にならないようにきっと取り計らいますから、御安心ください。もうおいおいに夜が更《ふ》けます。今晩はこれでお別れ申しましょう」
行きかけて、吉五郎はまた立ち戻った。
「唯今も申した通りですから、あなた方は決して蝶々の一件におかかわり合いなさるな。悪くすると、あなた方のおからだに何かの間違いが無いとも限りませんから……」
嚇《おど》すように云い聞かせて立ち去るうしろ姿を、長三郎は無言で見送っていた。
吉五郎が最後の一言はあながちに嚇しばかりでは無い、現に黒沼伝兵衛は目白の寺門前で怪しい横死《おうし》を遂げたのである。それを思うと、長三郎も今更のように一種の不安を感じて、どこにどんな奴が自分を付け狙っているかも知れないと、俄かに警戒するような心持にもなった。そうして、風の音にも油断なく耳と眼とを働かせながら、暗い夜道を提灯に照らして帰る途中、彼はいろいろに考えた。
今夜のことはすべて謎である。お冬の云うことも、吉五郎の云うことも、半分は判っているようで半分は判らない。お冬は自分をどこへ誘って行くつもりであったのか、吉五郎はなにを見付けたのか、長三郎にはよく判らないのである。彼は怪しい娘と岡っ引とに焦《じ
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