ろうと、お由は襖《ふすま》をあけて次の間へ行った。
 唸っているお年を呼び起こして介抱すると、少女のひたいには汗の珠《たま》がはじき出されるように流れていた。
 お年の夢はこうであった。彼女が姉と一緒に広い草原をあるいていると、姉の姿がいつか白い蝶に化《か》して飛んでゆく。おどろいて追おうとしたが、とても追いつかない。焦《じ》れて、燥《あせ》って、呼び止めようとするところを、母に揺り起こされたのである。
 その夢の話を聴かされて、お北ははっ[#「はっ」に傍点]と思った。今度こそは本当に顔色を変えたのである。しかもそうなると、白い蝶の一件を洩らすことがいよいよ憚られるように思われて、彼女はやはり口を閉じていた。母も少女の夢ばなしに格別の注意を払わないらしかった。
「子供のうちはいろいろの夢をみるものだ。姉さんはここにいるから、安心しておやすみなさい」
 お年は再び眠った。他の人々も皆それぞれ寝床にはいったが、その後にはなんの出来事もなく、瓜生の一家は安らかに一夜を過ごした。宵からの疲れで、お北も他愛なく眠った。
 風は夜のうちに止んでいたが、明くる朝は寒かった。こんにちと違って、その当時の音羽あたりは江戸の場末であるから、庭にも往来にも春の霜が深かった。早起きを習いとする瓜生の家では、うす暗いうちから寝床を離れて、お由は下女に指図して台所に立ち働いていた。お北は表へ出て門前を掃いていると、隣家の黒沼でももう起きているらしく、お勝も箒《ほうき》を持って門前へ出てきた。ふたりの娘はゆうべの挨拶を終ると、お勝は摺り寄ってささやくように云った。
「あなた、ゆうべの事を誰かに話しましたか」
「いいえ。まだ誰にも……」
「わたしはお母さまに話したのですよ」と、お勝はいよいよ声をひくめた。「そうしたら、お母さまはもう白い蝶々のことを知っているのです」
「お母さまも見たのですか」
「自分は見ないけれども、その話は聞いているのだそうです。お父さまに話したらば、そんな馬鹿なことを云うなと叱られたので、それぎり誰にも云わなかったのだそうです」
 御賄組などはその職務の性質上、どちらかと云えば武士気質《さむらいかたぎ》の薄い人々が多いのであるが、お勝の父の黒沼伝兵衛は生まれつき武士気質の強い男で、組じゅうでも義理の堅い、意地の強い人物として畏敬されていた。その伝兵衛に対してお勝の母が何か怪談めいた事など話した場合、あたまから叱り飛ばされるのは知れ切っていた。
 お勝の母の話によると、このごろ夜が更けると怪しい蝶が飛びあるく。それはお勝らが見たのと同じように、普通の物よりやや大きい白い蝶で、それが舞い込んだ家には必ず何かのわざわいがある。多くは死人を出すと云うのである。
「お母さまがどうしてそんな事を御存じなのでしょう」と、お北は又|訊《き》いた。[#「。」は底本では「、」]
「それはね」と、お勝は更に説明した。「四、五日前に白魚河岸《しらうおがし》のおじさんが御年始にきた時に、お母さまに話したので……。八丁堀でも内々|探索《たんさく》しているのだそうです」
 白魚河岸のおじさんと云うのは黒沼の親類で、姓を吉田といい、白魚の御納屋《おなや》に勤めている。吉田は土地の近い関係から、八丁堀同心らとも知合いが多いので、その同心の或る者から白い蝶の秘密を洩れ聞いたらしい。してみると、まんざら無根の流言《りゅうげん》とも云えないのであるが、伝兵衛は飽くまでもそれを否認していた。彼はこんなことまで云った。
「白魚河岸がそんな出たらめを云うのか。さもなければ、この頃はお膝元が太平で、八丁堀の奴らも閑《ひま》で困るもんだから、そんな、詰まらない事を云い触らして、忙がしそうな顔をしているのだ。ばかばかしい」
 こう一と口に云ってしまえばそれ迄であるが、白魚河岸のおじさんは嘘を云うような人ではない。八丁堀の人たちが幾ら閑《ひま》だからといって、根も葉もないことに騒ぎ立てるはずもあるまいと、お勝の母は夫に叱られながらも、内心はそれを信じていた。
 その矢さきに、お勝が現在その白い蝶の飛ぶ姿を見たと云うのであるから、母はいよいよそれを信じないわけには行かなくなった。
「それですから当分は夜歩きをしない方がいいと、お母さまは云っているのですよ」と、お勝はさらに付け加えた。

     二

 門前の掃除を仕舞ってお北はわが家へはいったが、今のお勝の話がなんとなく気にかかって、彼女は暗い心持になった。
 お勝の父がいかにそれを否認しても、白い蝶の怪異はまんざら跡方のないことでも無いように思われた。
 ことに妹のお年がゆうべの夢にうなされて、姉が白い蝶に化して飛び去ろうとしたと云う話が、また今更のように思い合わされて、お北は一種の恐怖を感じないわけには行かなかった。白い蝶と自分とのあ
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