いだに、何かの因縁が結び付けられているのではないかとも恐れられた。しかもそれを母や弟に打ちあけるのを憚《はばか》って、彼女はやはり黙って朝飯の膳にむかった。
「お前はゆうべからどうも顔の色が悪いようだが、まったく風邪《かぜ》でも引いたのじゃあないか」と、母のお由は再び訊いた。
「いいえ、別に……」と、お北はゆうべと同じような返事をしていたが、自分でも少し悪寒《さむけ》がするように感じられてきた。気のせいか、蟀谷《こめかみ》もだんだん痛み出した。
弟の長三郎は朝飯の箸をおくと、すぐに剣術の稽古に出て行った。四ツ(午前十時)頃に、父の長八は交代で帰ってきたが、これも娘の顔をみて眉をよせた。
「お北、おまえは顔色がよくないようだぞ。風邪でも引いたか」
父からも母からも風邪引きに決められてしまった。お北はとうとう寝床にはいることになった。下女のお秋は音羽の通りまで風邪薬を買いに出た。
お北は実際すこし熱があるとみえて、床にはいると直ぐにうとうとと眠ったが、やがて又眼がさめると、茶の間でお秋が何事をか話している声がきこえた。お秋が小声で母と語っているのであるが、襖ひとえの隣りであるから、寝ているお北の耳にも大抵のことは洩れきこえた。
「わたくしが薬屋へまいりますと、丁度お隣りのお安さんもお薬を買いに来ていまして、お隣りのお勝さんもやはり寝ておいでなさるそうで……」
「じゃあ、どっちも夜ふかしをして風邪を引いたのだね」と、お由は云った。
「いいえ、それがおかしいので……」
お秋は更に声を低めたが、とぎれとぎれに聞こえる話の様子では、かの白い蝶の一件について訴えているらしい。いずれにしても、お勝も床に就いたのである。
「まあ、そんなことがあったのかえ。お北はなんにも云わないので、わたしはちっとも知らなかったが……」と、お由は不安らしく云った。「そうすると、お勝さんもお北も唯の風邪じゃあ無いのかしら」
それから後は又もや声が低くなったが、やがてお秋が台所へさがり、お由は立って父の居間へ行ったらしかった。そのうちに、お北は又うとうとと眠ってしまったので、その後のことは知らなかったが、ふたたび眼をさますと、もう日が暮れていた。
このごろの癖で、夕方から又もや寒い風が吹き出したらしく、どこかの隙間から洩れて来る夜の風が枕もとの行燈《あんどう》の火を時々に揺らめかしていた。
お北が枕から顔をあげると、行燈の下には母のお由がやはり不安らしい眼色をして、娘の寝顔を窺うように坐っていた。
「どうだえ、心持は……」と、お由はすぐに訊いた。「少しは汗が取れましたかえ」
云われて気がつくと、お北の寝巻は汗でぐっしょりと濡れていた。母は手伝って寝巻を着かえさせて、娘をふたたび枕に就かせたが、十分に汗を取ったせいか、お北の頭は軽くなったように思われた。それを聴いて、お由はやや安心したようにうなずいたが、やがて又ささやくように話し出した。
「それはまあ好かった。実はわたしも内々心配していたんだよ。どうも唯の風邪でも無いらしいからね。おまえの寝ているあいだに、お隣りの黒沼の小父さんが来て……」
「お勝さんも悪いんですってね」と、お北も低い声で云った。
「けさまでは何ともなかったのだが、お午《ひる》ごろから悪くなって、やっぱりお前と同じように、風邪でも引いたような工合《ぐあい》で寝込んでしまったのだが、それには仔細《しさい》があるらしいと云うので、黒沼の小父さんが家《うち》へ聞き合わせに来なすったのだよ。ゆうべの歌留多の帰りに、目白下のお寺の前で、白い蝶々を見たと云うが、それは本当かと云うことだったが、お前も病気で寝ているから、あとで好く訊いておくと返事をして置いたのさ。そうすると黒沼の小父さんは、それでは又来ると云って出て行ったが、その足で音羽の通りへ出て、あの水引屋の……市川屋の店へ行って、職人の源蔵に逢って、何かいろいろ詮議をした末に、源蔵を案内者にして、お寺の方まで行ったのだとさ」
黒沼伝兵衛は娘の病気から白い蝶の一件を聞き出したが、元来そういうたぐいの怪談を信じない彼は、一応その虚実を詮議するために、そのとき一緒に道連れになったと云う市川屋の源蔵をたずねたのである。その結果を早く知りたいので、お北は忙がわしく訊いた。
「それからどうして……」
「あの小父《おじ》さんのことだからね」とお由は少しく笑顔を見せた。「なんでも源蔵を叱るように追いまわして、その蝶々を見たのはどの辺かということを厳重に調べたらしい。蝶々は生垣をくぐってお寺の墓場へ飛んで行ったと云うので、今度はお寺へはいって墓場を一々見てあるいたが、別にこれぞという手がかりも無く、蝶々の死骸らしい物も見付からなかったそうだよ。それでもまだ気が済まないと見えて、黒沼の小父さんはお寺の玄関へま
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