江戸川に発見された死骸は、十八、九の若い女で、武家らしい風俗である。瓜生の娘お北――それが直ぐに吉五郎の胸に浮かんだ。
「おれの鑑定は外《はず》れたかな」
寺で殺されて川へ流された女――それはお近ではなかったのか。お北か、お近か、彼はまだ半信半疑であった。
「こういうときには落ち着くに限る」
彼は更に二服目の煙草を吸った。表を駈けてゆく足音はいよいよ騒がしくきこえた。
一三
料理屋の勘定をすませて吉五郎は表へ出ると、江戸川の方角へむかって見物の弥次馬が駈けてゆく。吉五郎は目立たぬように頬かむりをして、その弥次馬の群れにまぎれ込んで行くと、江戸川橋から桜木|町《ちょう》の河岸《かし》へかけて、大勢の人が押し合っていた。検視の役人がまだ出張しないので、死骸は岸の桜の下へ引き揚げたままで荒莚《あらむしろ》を着せてあった。吉五郎はそっと眼をくばると、人込みのなかに兼松のすがたが見いだされた。市川屋の源蔵もまじっていた。
「御賄屋敷の娘さんと云うじゃありませんか」
「瓜生さんのお嬢さんだそうですよ」
「なんでも二、三日前から家出をしていたんだと云うことですがね」
「身投げでしょうか、殺されたんでしょうか」
口々に語り合っている弥次馬の噂を聴きながら、吉五郎はなおもあたりに眼を配っていると、十三、四歳らしい武家の娘と、十八、九ぐらいの女中らしい女とが息を切って駈け付けて来た。
「ちょっと御免ください」
諸人を押し分けて死骸のそばへ進み寄ると、あたりの人々は俄かに路を開いた。その様子をみて、吉五郎はすぐに覚《さと》った。ひとりは瓜生の妹娘で、ひとりは奉公人であろう。父や母は世間の手前、ここへ顔出しも出来ないので、娘と女中が取りあえず真偽を確かめに来たに相違ない。見物の人々もその顔を見識っているので、直ぐに路を開いて通したのであろう。さてこれからどうなるかと窺っていると、女中は死骸のそばに立っている自身番の男に会釈《えしゃく》した。
「この死骸をみせて貰うことは出来ますまいか」
「はい、どうぞ……」と、男は気の毒そうに云いながら、顔のあたりの莚《むしろ》を少しくまくりあげて見せた。
二人の女はひと目のぞいて、たがいに顔を見あわせたが、それぎり暫くは何も云わなかった。やがて男に再び会釈して、二人は無言のままで立ち去ってしまった。
「家《うち》から云い付けられて来たんだろうが、さすがはお武家の女たちだな」
「ちっとも取り乱した様子を見せないぜ」
かれらのうしろ姿を見送って、人々はささやいていた。吉五郎は猶もそこにたたずんで、検視の来るのを待っていたが、役人は容易に来なかった。真昼の春の日を浴びて、人込みのなかに立っていて、彼は少し逆上《のぼ》せて来たので、あとへさがって河岸端《かしばた》の茶店へはいると、兼松もつづいて葭簀《よしず》のうちへはいって来た。
「死骸は瓜生さんの娘に相違ないそうですよ」と、彼は小声で云った。
「むむ。あの女たちの様子で判っている」と、吉五郎もうなずいた。「だが、おれの鑑定もまんざら外《はず》れたわけじゃあねえ。あの死骸は寺で殺されたんじゃあねえ。自身番の奴が莚をまくったときに、おれもそっと覗いてみたが、死骸の顔にも頸のまわりにも疵らしい痕はなんにも見えなかった。第一、人に殺されたような顔じゃあねえ」
「じゃあ、唯の身投げでしょうか」
「まずそうだろうな。寺で殺された女はほかにある筈だ」と、云いかけて吉五郎は葭簀の外を覗いた。「おい。兼、あすこで源蔵と立ち話をしている中間《ちゅうげん》は、どこの屋敷の奴だか、そっと源蔵に訊《き》いてみろ」
「あい、あい」
兼松は駈け出して行ったが、やがて又引っ返して来た。
「あれは佐藤の屋敷の中間で、鉄造というのだそうです」
「そうか。留がいるといいんだが……」と、吉五郎は舌打ちした。「まあ、いい。おれが直《じ》かに当たってみよう。おめえはここに残っていて、検視の来るまで見張っていてくれ」
吉五郎は茶店を出ると、かの中間はまだそこを立ち去らずに、あとからだんだんに集まって来る見物人の顔を、じろじろと眺めていた。そのそばへ摺り寄って、吉五郎は馴れなれしく声をかけた。
「おい、兄《あに》い、済まねえが、ちょいと顔を貸してくんねえか」
「おめえは誰だ」と、中間は睨むように相手の顔を見返った。
「おめえは三河町の留という野郎を識っているだろう」
「三河町の……留……」と、中間はその眼をいよいよ光らせた。「その留がどうしたんだ」
「留が少し怪我をしたので、おれが代りに来たんだ。野暮を云わねえで、そこまで一緒に来てくんねえ」
「むむ、そうか」
中間も相手の何者であるかを大抵推量したらしく、思いのほか素直に誘い出されたので、吉五郎は先きに立って彼を元の小料理屋へ
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