まったようで、犬の声もだんだんに遠くなりました」
「どっちの方へ遠くなったえ」
「橋の方へ……」
「もうほかに話してくれることは無いかね」
「へえ」
「いや、大きに御苦労。この後も何か気のついたことがあったら教えてくんねえ」
「かしこまりました」
 源蔵はほっ[#「ほっ」に傍点]としたように立ち去った。それを見送って、吉五郎は子分にささやいた。
「正直そうな奴だな」
「小博奕《こばくち》ぐらいは打つでしょうが、人間は正直者ですよ」と、兼松は答えた。「そこで、親分。今の話の様子じゃあ、ゆうべ此の辺で人間の死骸を運んだ奴があるらしゅうござんすね」
「むむ。まんざら心当たりがねえでもねえ。おれもたった今、留の野郎から聞いたんだが……。おい、耳を貸せ」
 吉五郎は再びささやくと、兼松は顔をしかめながら幾たびかうなずいた。
「へえ、そんなことがあったんですか。夜なかに寺の庭さきで男と女がむしり合いをして……。じゃあ、その女が息を止められたんでしょうね」
「まあ、そうだろうな」
「女は誰でしょう。お冬でしょうか」
「さあ、それが判らねえ。この一件にはお冬と、御賄屋敷を家出したお北という女と、佐藤の屋敷に隠れているお近という女と、都合三人の女が引っからんでいるらしいので、どれだかはっきりとは判らねえが、まずこの三人のうちだろう。みんな殺されそうな女だからな」
「それにしても、まあ誰でしょう」
「執拗《しつこ》く訊くなよ。それを穿索するのがおめえ達の商売じゃあねえか」と、吉五郎は笑った。「だが、まあ、おれの鑑定じゃあお近という女だろうな。なにしろ自分が殺されそうになっても、ちっとも声を立てずに争っていたのを見ると、よっぽどのしっかり者に相違ねえ。お北というのはどんな女か知らねえが、いくら武家の娘でも斯ういう時にはなんとか声を立てる筈だ。お冬もしっかり者らしいが、なんと云っても小娘だ。大の男を相手にして、いつまでも激しく争っていられそうもねえ。そうすると、まずお近だろうな」
「なるほど、そういう理窟になりますね。それで、これからどうしましょう」
「佐藤の屋敷へ踏み込むか、祐道という坊主を締め上げるか、それが一番早手廻しだが、なにぶん一方は旗本屋敷、一方は寺社の係りだから、おれ達が迂闊《うかつ》に手を入れるわけにも行かねえので困る。まあ、気長に手繰《たぐ》って行くよりほかはあるめえ、第一に突き留めなけりゃあならねえのは、その死骸の始末だが、寺で殺して置きながら墓場へ埋めてしまわねえのは、後日《ごにち》の証拠になるのを恐れたのだろう。川へ流したか、それとも人の知らねえような所へ埋めてしまったか。源蔵の話じゃあ、二人の男が橋の方へ行ったらしいと云うから、ひょっとすると何かの重しでも付けて、江戸川の深いところへ沈めたかも知れねえ。日が経って浮き上がったにしても、死骸がもう腐ってしまえば人相は判らねえからな」
「そうですね。殺した奴は誰でしょう」
「おればかり責めるなよ。おめえもちっと考えろ」と、吉五郎はまた笑った。「殺されそうな女も三人あるが、殺しそうな男も三人ある。火の番の藤助と、黒沼の婿の幸之助と……。もう一人は寺の住職……。まず三人のうちらしいな。いや、往来でいつまでも立ち話をしているのは良くねえ。そこらで午飯でも食いながら相談するとしよう。留はあの様子じゃあ、まだ当分は思うように働かれめえ。おめえが名代《みょうだい》にひと肌ぬいでくれ。頼むぜ」
「ようがす」
 二人は連れ立って、そこらの小料理屋へあがると、時刻はもう午《ひる》を過ぎているので、狭い二階には相客もなかった。縁側に寝ころんでいた猫は人の影をみて早々に逃げて行った。
「あんまり居ごころのいい家《うち》じゃあねえな」と、兼松はつぶやいた。
「まあ仕方がねえ。こういう時には、繁昌しねえ家の方が都合がいいのだ」
 親分も子分も少しは飲むので、取りあえず酒と肴をあつらえて猪口《ちょこ》を取りかわした。
「今度の一件は留の受け持ちで、わっしは中途からの飛び入りだから、詳しいことが腹にはいっていねえんですが……」と、兼松は猪口を下に置いて云い出した。「いったい、佐藤の屋敷に忍んでいるお近という女は何者ですね」
「今はお近といっているそうだが、以前はお亀といって、深川の羽織をしていたんだ」
「むむ。芸者あがりかえ」
「容貌《きりょう》も好し、気前もいいとか云うので、まず相当に売れているうちに、金田という千石取りの旗本の隠居に贔屓《ひいき》にされて、とうとう受け出されて柳島の下《しも》屋敷へ乗り込むことになったのだ」と、吉五郎も猪口を置いて説明した。「それでまあ二年ほど無事に暮らしていたのだが、今から足かけ四年前の秋のことだ。十三夜の月見で、夜の更《ふ》けるまで隠居と仲よく飲んでいた。……それまでは
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