来ると、母のお由は午飯《ひるめし》を食いながら話した。
「おとなりの幸之助さんはゆうべから帰らないそうだね」
「どうしたのでしょう」と、長三郎はそらとぼけて訊《き》いた。
「お友達と一緒に遊びにでも行ったのかも知れない」と、お由は笑いながら云った。「こっちへ来てはまだ昨今だけれど、京橋の方にはお友達が随分あるようだからね。なにしろ御納屋《おなや》の人たちには道楽者が多いと云うから」
「お婿《むこ》に来て、まだ一と月にもならないのに、夜遊びなんぞしては悪いでしょう」
「悪いとも……」と、お由はうなずいた。「けれども、お婿と云っても相手のお勝さんがあの通りだからね。きっとお友達にでも誘われて、どこへか行ったのだろうよ」
姉のお北も、妹のお年も、そばで一緒に箸をとっているので、長三郎はこの対話のあいだに姉の顔をぬすみ視ると、気のせいか、お北の顔色はやや蒼白く見られた。
その日の夕方に、お北もゆくえ不明になった。
七
「きょうはお天気で好うござんしたね」と、二十四、五の小粋《こいき》な女房が云った。
「むむ。初午《はつうま》も二の午も大あたりだ。おれも朝湯の帰りに覗いて来たが、朝からお稲荷さまは大繁昌だ」と、三十二、三の亭主が答えた。
「それじゃあ、わたしも早くお参りをして、お神酒《みき》とお供え物をあげて来ましょう」
女房は帯をしめ直して、表へ出る支度に取りかかった。この夫婦は神田の三河町に住む岡っ引の吉五郎と、その女房のお国である。女中に神酒と供え物を持たせて、お国が表へ出てゆくと、それと入れちがいに、裏口から一人の男が顔を出した。
「親分。内ですかえ」
取次ぎの子分が居合わせないで、吉五郎は長火鉢の前から声をかけた。
「留《とめ》じゃあねえか。まあ、あがれ」
「お早ようございます」
手先の留吉はあがって来た。
「誰もいねえから火鉢は出せねえ。ずっとこっちへ来てくれ」と、吉五郎は相手を長火鉢の向うに坐らせて、直ぐに小声で話し出した。「どうだ。例の件は……」
「面目がありません、このあいだの晩はどじ[#「どじ」に傍点]を組[#「組」に傍点]んでしまって……」と、留吉は小鬢《こびん》をかいた。「だが、親分。もう大抵のところは見当が付きましたよ。お尋《たず》ね者のお亀はお近と名を変えて、音羽の佐藤孫四郎という旗本屋敷に巣を作っているんです」
「佐藤孫四
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