でしょう」
お勝も提灯をあげて透かして見ると、ふたりの行くさきに一つの白い影が舞っているのである。更によく見ると、それは白い蝶である。普通に見る物よりやや大きいが、たしかに蝶に相違なかった。蝶は白い翅《はね》をひるがえして、寒い風のなかを低く舞って行くのであった。二人は顔を見あわせた。
「蝶々でしょう」と、お勝はささやいた。
「それだからおかしいと思うの」と、お北も小声で云った。「今頃どうして蝶々が飛んでいるのでしょう」
時は正月、殊にこの暗い夜ふけに蝶の白い形を見たのであるから、娘たちが怪しむのも無理はなかった。二人はそのまま無言で蝶のゆくえを見つめていると、蝶は寒い風に圧《お》されるためか、余り高くは飛ばなかった。むしろ地面を掠《かす》めるように低く舞いながら、往来のまん中から左へ左へ迷って行って左側の或る寺の垣に近寄った。それは杉の低い生垣《いけがき》で、往来からも墓場はよく見えるばかりか、野良犬《のらいぬ》などが毎日くぐり込むので、生垣の根のあたりは疎《まば》らになっていた。蝶はその生垣の隙間《すきま》から流れ込んで、墓場の暗い方へ影をかくした。
それを不思議そうに見送っていると、二人のうしろから草履の音がきこえて、五十ばかりの男が提灯をさげて来た。彼は通り過ぎようとして見返った。
「御組屋敷のお嬢さん達じゃあございませんか」
声をかけられて、二人も見かえると、男は音羽の市川屋という水引屋《みずひきや》の職人であった。ここらは江戸城に勤めている音羽という奥女中の拝領地で、音羽の地名はそれから起こったのであると云う。その関係から昔は江戸城の大奥で用いる紙や元結《もっとい》や水引のたぐいは、この音羽の町でもっぱら作られたと云い伝えられ、明治以後までここらには紙屋や水引屋が多かった。この男もその水引屋の職人で、源蔵という男である。多年近所に住んでいるので、お北もお勝も子供のときから彼を識っていた。
「今時分どこからお帰りです」と、源蔵はかさねて訊《き》いた。
「鈴木さんへ歌留多《かるた》を取りに行って……」と、お北は答えた。
「ああ、そうでしたか」と、源蔵はうなずいた。「そうして、ここで何か御覧になったんですか」
「白い蝶々が飛んでいるので……」
「白い蝶々……。ご覧になりましたか」
「こんな寒い晩にどうして蝶々が飛んでいるのでしょう」と、お勝が訊いた。
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