が降るのに人立ちがしているから、なんだろうと思って覗いてみると、隣り町《ちょう》のしん吉のおっかさんが自身番へ駈け込んで、おいおい泣いているのよ」
しん吉というのは落語家《はなしか》しん生の弟子で、となり町の裏に住んでいる。年は二十四、五で、男前は悪くないが芸が未熟であるために、江戸のまん中の良い席へは顔を出されず、場末や近在廻りなどをして、母のおさが[#「おさが」に傍点]と二人で暮らしている。それでも芸人の端《はし》くれであり、且は近所でもあるので、半七はしん吉親子の顔を識っていた。
「しん吉のおふくろは何を泣いているのだ」
「それがね。なんだか取り留めのない話のようだけれども、おっかさんは一生懸命に泣いて騒いでいる。と云うのは、しん吉は先月から甲州街道の方角へ稼ぎに行って[#「行って」は底本では「云って」]、月ずえには江戸へ帰る筈のところが、今月になっても便りがない。おっかさんも毎日心配していると、おとといの晩、おっかさんが変な夢を見たんだとさ」
「どんな夢を見た……」
「おっかさんが火鉢のまえに坐っていると、しん吉が外からぼんやりはいって来て、だまって手をついている。おや、お帰りかえと声をかけても返事をしない。なぜ黙って俯向いているんだよと云うと、しん吉は小さな声で、顔を見せると阿母《おっか》さんがびっくりするからと云う。おまえの顔を見てびっくりする奴があるものか、旅から帰って来たら先ず無事な顔を親に見せるものだ、早く顔をお見せよと云うと、しん吉がひょいと顔をあげた……」
ここまで話して来て、お仙は思わず息をのみ込むと、幸次郎は笑いながら口を出した。
「なんだか怪談がかって来たようだね」
「まったく怪談さ」と、お仙は顔をしかめた。「しん吉が顔をあげると、顔は血だらけ……。なんでも砂利のような物で引っこすったように、顔一面に摺《す》りむけている。おっかさんも驚いてきゃっ[#「きゃっ」に傍点]と云うと、夢が醒めた……。もしやこれが正夢《まさゆめ》で、せがれの身の上に何か変事でもあったのじゃあ無いかと、おっかさんも頻りに案じていると、ゆうべも同じ夢をみて、せがれの顔はやっぱり血だらけ……。いよいよ心配していると、きょうの宵の口、おっかさんが銭湯から帰って来ると、暗い家のなかにしん吉がしょんぼりと坐っている。それが振り向くと、やっぱり血だらけの顔をしていたので、おっかさんはもう声が出なかったそうで……。これはどうしても唯事でない。せがれは何処でか非業《ひごう》の最期を遂げたに相違ないと、おっかさんは半気違いのようになって自身番へ泣き込んで来たと云うわけさ。自身番だってどうすることも出来ない。お前があんまり心配するから、そんな夢を見たのだろうとか、夢は逆夢《さかゆめ》だとか云って、まあいい加減になだめているのだが、親ひとり子ひとりの伜にもしもの事があったら、あたしも生きちゃあいられないとか云って、おっかさんは泣いて騒いでいる。そのうちに大屋《おおや》さんが来て、無理になだめて引っ張って帰ったが、考えてみれば可哀そうでもあり、しん吉は一体どうしたのかねえ」
聴いている三人は顔を見あわせた。外には暗い雨が小歇《こや》みなく降っていた。
「なるほど怪談だ」と、善八は冷えた茶を飲みながら云った。「だが、自身番で云う通り、お袋があんまり心配しているので、せがれの夢を見たり、せがれの姿を見たりしたのだろう。そんな事とは知らねえで、しん吉の野郎、近在をまわってちっとふところが暖《あった》まったので、今頃どこかの宿場《しゅくば》でおもしろく浮かれているかも知れねえ。親不孝な野郎だ」
「おい、お仙。傘を出してくれ」
半七は立ちあがって帯を締め直した。
「どこへ行くの」
「しん吉のおふくろに逢って来る」
「親分。怪談を真《ま》に受けて行くのかえ」と、幸次郎は半七の顔をみあげた。
「真に受けても受けねえでも、ちっと思いあたることがある。おれの帰るまで、おめえ達は待っていてくれ」
降りしきる雨の中を、半七は隣り町へ出て行った。
五
その明くる朝、半七は八丁堀同心の屋敷へ顔を出して、かくかくの次第で四、五日は江戸を明けると云うことを届けた上で、朝の四ツ(午前十時)頃に府中をさして出発した。幸次郎も善八も一緒に出た。
幸いに強い雨ではなかったが、きょうもしとしと降りつづいている。先度《せんど》の小金井行きとは違って、三人は雨支度の旅すがたで、菅笠、道中合羽、脚絆、草鞋に身を固め、半七はふところに十手を忍ばせていた。道順も先度とは少し違って、上高井戸から烏山、金子、下布田、上布田、下石原、上石原、車返し、染屋と甲州街道を真っ直ぐにたどって、府中の宿に行き着いたのは、七ツ半(午後五時)を過ぎる頃であった。
宿屋は先度の柏屋で、三人は
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