半七捕物帳
薄雲の碁盤
岡本綺堂

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)髪結床《かみゆいどこ》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)下谷の豊住|町《ちょう》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)さもなければ[#「さもなければ」は底本では「さもなけれは」]
−−

     一

 ある日、例のごとく半七老人を赤坂の家にたずねると、老人はあたかも近所の碁会所から帰って来た所であった。
「あなたは碁がお好きですか」と、わたしは訊いた。
「いいえ、別に好きという程でもなく、いわゆる髪結床《かみゆいどこ》将棋のお仲間ですがね」と、半七老人は笑った。「御承知の通りの閑人《ひまじん》で、からだの始末に困っている。といって、毎日あても無しにぶらぶら出歩いてもいられないので、まあ、暇潰しに出かけると云うだけの事ですよ」
 それから糸を引いて、碁や将棋のうわさが出ると、話のうちに老人はこんなことを云い出した。
「あなたは御存じですか。下谷坂本の養玉院という寺を……」
「養玉院……」と、わたしは考えた。「ああ、誰かの葬式で一度行ったことがあります。下谷の豊住|町《ちょう》でしょう」
「そうです、そうです。豊住町というのは明治以後に出来た町名で、江戸時代には御切手町《ごぎってちょう》と云ったのですが、普通には下谷坂本と呼んでいました。本当の名は金光山大覚寺というのですが、宗対馬守《そうつしまのかみ》の息女養玉院の法名を取って養玉院と云うことになりました。この寺に高尾の碁盤と将棋盤が残っているのを御存じですか」
「知りません」
「吉原の三浦屋はこの寺の檀家であったそうで、その縁故で高尾の碁盤と将棋盤を納めたと云うことになっています。高尾は初代といい、二代目といい、確かなことは判りませんが、ともかくも古い物で、わたくしも一度見たことがあります。今でも寺の什器になっている筈ですから、あなたなぞは一度御覧になってもいいと思います。いや、その碁盤で思い出しましたが、ここに又、薄雲の碁盤というのがありました」
「それも養玉院にあるんですか」
「違います。その碁盤は深川六間堀の柘榴《ざくろ》伊勢屋という質屋から出たのです」と、老人は説明した。「ところで、その碁盤については怪談めいた由来話が付きまとっているのです。御承知の通り、高尾と薄雲、これが昔から吉原の遊女の代表のように云われていますが、どちらも京町《きょうまち》の三浦屋の抱妓《かかえ》で、その薄雲は玉という一匹の猫を飼っていました。すると、ある時その猫が何かにじゃれて、床の間に飛びあがったはずみに、そこに置いてある碁盤に爪を引っかけて、横手の金蒔絵に疵を付けました。もちろん大きな疵でもなく、薄雲もふだんからその猫を可愛がっているので、別に叱りもしないで其のままにして置きました」
「碁盤は金蒔絵ですか」
「なにしろ其の頃の花魁《おいらん》ですからね。その碁盤もわたくしは見ましたが、頗る立派なものでした。木地《きじ》は榧《かや》だそうですが、四方は黒の蝋色で、それに桜と紅葉を金蒔絵にしてある。その蒔絵と木地へかけて小さい爪の跡が残っている。それが玉という猫の爪の痕だそうで……。爪のあとが無かったら猶よかろうと思うと、そうで無い。前にも申す通り、ここに一場の物語ありという訳です。
 ある日のこと、薄雲が二階を降りて風呂場へゆくと、かの猫があとから付いて来て離れない。主人と一緒に風呂場へはいろうとするのです。いくら可愛がっている猫でも、猫を連れて風呂へはいるわけにはいかないので、薄雲は叱って追い返そうとしても、猫はなかなか立ち去らない。ふだんと違って、すさまじい形相《ぎょうそう》で唸りながら、薄雲のあとを追おうとする。これには持て余して人を呼ぶと、三浦屋の主人も奉公人も駈けて来て、無理に猫を引き放そうとしたが、猫はどうしても離れない。
 こうなると、猫は気が狂ったのか、さもなければ[#「さもなければ」は底本では「さもなけれは」]薄雲を魅込《みこ》んだのだろうと云うことになって、主人は脇差を持って来て、猫の細首を打ち落とすと、その首は風呂場へ飛び込みました。見ると、風呂場の竹窓のあいだから一匹の大きい蛇が這い降りようとしている。猫の首はその蛇の喉《のど》に啖《くら》い付いたので、蛇も堪まらずどさりと落ちる。その頃の吉原は今と違って、周囲に田圃《たんぼ》や草原が多いので、そんな大きな蛇が何処からか這い込んで来たとみえます。猫はそれを知って主人を守ろうとしたのかと、人々も初めて覚ったがもう遅い。薄雲は勿論、ほかの人々も猫の忠義をあわれんで、その死骸を近所の寺へ送って厚く弔ってやりました。
 その時に例の碁盤も一緒に添えて、その寺へ納めたのだそうですが、そ
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