くお俊の讒言《ざんげん》に相違ないと、万力はますますお俊を憎むようになりました。
 もう一つ、由兵衛は子供のないのを云い立てに、女房のおかめを里へ戻して、お俊を深川の本宅へ引き入れるような噂がある。そんなことになれば、女房の里方《さとかた》の不承知は勿論、親類たちからも故障が出て、伊勢屋の店にお家騒動が起こるのは見え透いている。忠義の万力としては、これも我慢の出来ないことです。それやこれやを考えると、万力はどうしてもお俊をそのままにして置くことは出来ないと、ひそかに覚悟を決めていました。
 どうせお俊を殺すならば、かたきの銀之助も一緒に殺したいと思って、万力はその出入りを窺っていたのですが、あいにくいい機会がない。そんな屈托《くったく》があるためか、この冬場所の万力は白星四つ、黒星六つという負け越しで、大いに器量を下げました。そんなことで気を腐らしているところへ、お俊の引っ越し一件が出来《しゅったい》したので……。駒形へ引っ越すのは、自分の近所を離れて、自由に銀之助を引き入れる料簡だろう。お直に暇を出したのも、伊勢屋の方から廻して来た女中では、なにかに付けて気が置ける為だろう。そう思うと、万力はますます腹が立ちました。
 その矢さきに例の碁盤を見て、万力は急に殺気を帯びて……。猫のたましいが乗り移ったと云うわけでも無いでしょうが、もう銀之助などはどうでもいい、今夜のうちにお俊を殺してしまおうと断然決心して、日の暮れる頃から相生町一丁目へ出かけて、お俊の家《うち》のあたりを徘徊していると、どこへ行くつもりかお俊は頭巾をかぶって出て来ました。これ幸いと声をかけて、旦那は深川の平清《ひらせい》に来ているので、私がおまえさんを迎いに来たと云う。お俊も万力に対しては内々用心していたのでしょうが、そこが運の尽きと云うのでしょう。うっかり瞞《だま》されて一つ目の橋の上まで来ると、人通りのないのを見すまして、万力は不意にお俊の喉を絞めました。相撲の力で絞められちゃあ堪まりません。お俊は半死半生でぐったりとなったのを、万力は背中に負って、回向院前の自宅へ帰りました。
 万力は男世帯で、家には黒松という取的《とりてき》がいるだけです。その黒松に手伝わせてお俊の首を斬り落とし、死骸は床下に埋めました。これで先ずお俊は片付けてしまいましたが、もしや銀之助が泊まりにでも来ているかと、万力は夜更けにお俊の家へ忍び込みましたが、誰もいないので空しく引っ返しました。隣りの駒吉が格子の音を聞いたのは此の時でしょう。それからお俊の切り首を風呂敷につつんで万力が引っかかえ、碁盤を黒松に持たせて、ふたたび自分の家を忍んで出ました。
 最初は銀之助の屋敷の前へ置いて来るつもりで、深川の籾蔵前まで行ったのですが、その屋敷はたった一度見ただけで、しかも闇の晩なので、同じような屋敷が幾軒も列んでいると、どれが大瀬の屋敷だか判らなくなってしまいました。迂闊に門《かど》違いをしては、他人の迷惑になると思ったので、万力は又引っ返して本所へ行って、小栗の屋敷の前に置いて来たという訳で……。まあ、次男の恨みを本家に報いた形です。悪い弟を持った為に、本家は飛んだ迷惑、思えば気の毒でした」
「そうすると、黒松という弟子も共犯ですね」
「師匠の指図で忌《いや》とも云えなかったのでしょう。万力は幾らかの金を持たせて、夜の明けないうちに黒松を逃がしてやりました。黒松の故郷は遠州掛川在ですから、念のために問い合わせましたが、そこにも姿を見せない。多分|上方《かみがた》へでも行ったのだろうと云うことで、とうとうゆくえ知れずになってしまいました。黒松なんぞは名も知れない取的ですから、別に問題にもなりませんが、万力は二段目の売出しですから、この噂が伝わると世間では驚きました。
 銀之助に対する恨みがまじっているとは云いながら、万力がお俊を殺したのは我が身の慾でもなく、色恋でもなく、旦那に対する忠義の心から出たことですから、自然に世間の同情も集まるというわけでした。この前年、即ち文久二年の四月にも相撲の人殺しがありました。これは不動山と殿《しんがり》の二人が同じ力士の小柳平助を斬り殺して自首した一件で、その噂の消えないうちに、又もや万力の事件が出来《しゅったい》したので、いよいよその噂が高くなったのでした」
「そこで、問題のあばたはどういうことになりました」
「前にも申す通り、わたくし共の商売には感が働きます」と、老人は笑った。「そのなかには飛んだ感違いもあるのですが、このときは巧く働きました。あばたが無かろうが有ろうが、女はどうしてもお俊らしいと、わたくしは最初から睨んでいましたが、やっぱりそうでした。お俊には薄あばたがあったのですが、それを白粉で上手に塗り隠していたのです。あとで聞くと、お俊は身嗜《
前へ 次へ
全11ページ中10ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
岡本 綺堂 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング