えか」
「いいえ、誰も来ていやあしません」と、駒吉は急いで茶をいれる支度にかかった。
「もう構わねえがいい。遊びに来たのじゃあねえ」と、半七は直ぐに用談に取りかかった。「実は隣りのお俊の一件だが、あの女の旦那は深川の柘榴伊勢屋だね」
「そうです」
「伊勢屋は始終来るのかえ」
「ちょいちょい見えるようでした」
「旦那のほかに誰か来やあしねえか。若い男でも……」
 駒吉はすこし躊躇したが、半七の前で隠すことも出来ないらしく、正直に話した。
「ええ、時々に若い男の人が……。お武家さんのようでした」
「泊まって行くような事もあったかえ」
「泊まることは無かったようですが、いつも一人で来て、四ツ過ぎまで遊んでいたようです。女中の話では、なんでも深川の方の人だと云うことでした」
「女中はなんと云うのだね」
「女中はお直さんと云って、十七、八のおとなしい人でした。家《うち》はやっぱり深川で、大島|町《ちょう》だとか云っていました」
「きのう引っ越しをする時に、お直もいたかえ」
「お直さんは見えなかったようです。あとで聞くと、もう前の日あたりに暇を取って、出て行ってしまったらしいと云うことでした」
「そうすると、おとといの晩はお俊ひとりで寝ていたわけだね」
「そうかも知れません。日の暮れる頃にどこへか出て行って、夜の更けた頃に帰って来たようです。わたくしはもう寝ていましたから、よくは存じませんが、格子をあける音がしましたから、その時に帰って来たのだろうと思っていました」
「格子をあけて帰って来て、また出て行ったような様子はなかったかね」
「さあ」と、駒吉はかんがえていた。「今も申す通り、わたくしはもう寝ていましたので、半分は夢うつつで、帰って来たらしい様子は知っていましたが、また出て行ったかどうだか、そこまでは覚えて居りません」
 時々に遊びに来るという若い武家について、半七は更に詮議をはじめた。
「その武家というのはお俊の情人《いろ》だろうね」
「そうかも知れません」と、駒吉は笑っていた。「見たところ、粋な道楽肌の人でしたから……」
「相撲取りで出這入りをする者はなかったかね」
「伊勢屋の旦那がたいそう御贔屓だそうで、万力というお相撲さんが来ることがありました」
「万力はひとりで来る事もあったかえ」
「ひとりで来たことは無いようです。大抵は旦那と一緒のようでした」
「いや、有難う。判らねえことがあったら、また訊きに来るとして、きょうはこれで帰るとしよう。御用とは云いながら、稽古所へ来て邪魔をして済まなかった。こりゃあ少しだが、白粉でも買ってくんねえ」
 辞退する駒吉に幾らかの白粉代を渡して、半七はここを出た。相変らずの寒い風に吹かれながら回向院前へ来かかると、半七は呼び出しの三太に逢った。
 云うまでなく、この当時の大相撲すなわち勧進相撲は春場所と冬場所の二回で、冬場所は十月の末頃から十一月にかけて晴天十日の興行と決まっていた。その冬場所が終った後で、呼び出しの三太は江戸に遊んでいるらしかった。彼は半七を見て挨拶した。
「親分、お寒うございます」
「冬場所はたいそう景気が好かったそうだね」
「世間がそうぞうしいのでどうだかと案じていましたが、お蔭でまあ繁昌でした」
「いいところでおめえに逢った。少し訊きてえことがある」
 回向院の境内へ三太を連れ込んで、半七は万力甚五郎の詮議をはじめた。

     五

 日の暮れる頃に松吉は帰って来たが、その報告は小栗の用人の話に符合していた。大瀬の屋敷の養子銀之助は、その当時の旗本の次三男にあり勝ちの放蕩者で、近所の評判もよくない。平井善九郎そのほか五、六人の遊び友達と連れ立って諸方を押し廻している。万力の刀を取り上げたのも銀之助の仕業で、天下の力士に両手をついて謝らせたと、彼は自慢そうに吹聴《ふいちょう》していた。
 その一件の当時、その船に乗り合わせていたのは確かにお俊であったが、彼女が伊勢屋に引かされた後、銀之助がその妾宅へ出入りしていたかどうかはよく判らないと云うのであった。
 しかも以上の探索で半七の肚は決まったので、その翌朝、八丁堀同心熊谷八十八の屋敷に行って、委細の事情を申し立てた。その許可を得て、彼は直ぐに深川の北六間堀へ出向いて、柘榴伊勢屋の主人由兵衛を番屋へ呼び出した。
 それと同時に、本所回向院門前に住む二段目相撲万力甚五郎の宅をあらためると、家財をそのままにして、万力は駈け落ちしたと云うのである。その台所の床下から首のない女の死骸があらわれた。

「先ずこんなわけで、これだけお話をすれば、もう大抵お判りでしょう」と半七老人は云った。「女の生首を碁盤に乗せて、武家屋敷の門前にさらして置く。……事件は頗る珍らしいのですが、その事情は案外に単純で、別に講釈をする程のことはありません」
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