傍点]と云っても、もう及ばない。相手の船は一間あまりも開いてしまったので、大兵肥満の彼は身を跳らせて飛び込むことは出来ない。彼は実に途方に暮れた。
 その騒ぎに由兵衛も後戻りをして来たが、これもどうすることも出来ない。こうなったら謝《あやま》るのほかはないので、由兵衛は早くあやまれと万力に注意して、自分も口を添えて詫びた。万力も幾たびか頭を下げて平謝りにあやまった。こっちの弱味に付け込んで、相手はこの刀を大川に投げ込むぞとおどした。投げ込まれては大変であるから、万力は殆ど泣かぬばかりに弱り切って、結局は桟橋に両手をついて謝った。
 仮りにも天下の力士たるものに、両手をついて謝らせて、相手も胸が晴れたであろう。刀は船頭の手から無事に戻された。由兵衛はその船頭に相当の祝儀をやって別れた。
「まあ、そう云うわけで……」と、徳次は話しつづけた。「わたしも傍《そば》に見ていたのですが、相手がお武家だからどうすることも出来ません。相撲取りの腰に差しているのだから、おおかた屋敷の拝領物だろうと見当を付けて、手っ取り早く引ったくってしまうなんて、なかなか喧嘩馴れているのだから敵《かな》いません」
「だが、万力という奴も愛嬌がねえ。なぜ最初に挨拶をしなかったのだ。それじゃあ怒られても仕方があるめえ」と、松吉が喙《くち》を容れた。
「それがねえ。松さん」と、徳次は更に説明した。「万力も礼儀も知らねえ男じゃあねえのだが、ちょいと面白くねえ事があって……。と云うのは、伊勢屋の旦那のお馴染のお俊がその客の船に乗り合わせていたので……。そりゃあ芸者稼業をしている以上は、どんな客と一緒に乗っていようと、別に不思議はねえ理窟ですが、万力にしてみると、自分の旦那のなじみの女がほかの客の船に乗っている。それがなんだか癪にさわったので……。勿論、癪にさわる方が悪いのだが、根が正直で一本気の男だから、つい癪にさわって無愛想になったようなわけで、当人だって真逆《まさか》にこんな事になろうとは思わなかったのでしょう。なにしろ相手の素早いには驚きましたよ」
「小ッ旗本の道楽者にゃあ摺れっからしが多いから、うっかり油断は出来ねえ」と、半七は笑った。「それでも、まあ無事に済んでよかった」
「ところが、無事に済まねえんで……」と、徳次は顔をしかめた。「そこはまあ、それで納まったのですが、その一件がいつか屋敷の耳にはいって、天下の力士が拝領の刀を取られて、桟橋に両手をついて謝ったなぞとは、抱え屋敷の面目にかかわると云うので、万力はとうとう出入りを止められてしまいました。そうなると伊勢屋の旦那も、自分が花見に連れ出してこんなことが出来《しゅったい》したというので、今までよりも余計に万力の世話をしてやるようになったのです。伊勢屋は旧い店で、身上《しんしょう》もなかなかいいそうですから、その後楯《うしろだて》が付いていりゃあ万力も困ることは無いでしょうが、抱え屋敷をしくじっちゃあ仲間に対して幅が利かねえ。それを思うと、一概に羨ましいとばかりも云われません。当人は肚《はら》で泣いているかも知れませんよ」
「そうだろうな」と、半七も溜め息をついた。「そうして、その相手の二人侍《ににんざむれえ》は、何者だか判らねえのか」
「ひとりは本所の御旅所《おたびしょ》の近所に屋敷を持っている平井善九郎というお旗本ですが、連れの一人は判りません。刀を引ったくったのは平井さんでなく、連れのお武家の方でしたが、年頃は二十一、二で小粋な人柄でした。まあ、次三男の道楽者でしょうね」
「お俊はその平井という侍とも馴染なのか」
「別に深い馴染というでもありませんが、まんざら知らないお客でも無いそうです。なにしろ、そんな船に乗り合わせていたお俊も災難で、本人のした事じゃあありませんが、自然に伊勢屋の旦那の御機嫌を損じるような破目《はめ》になって、その当座はちっと縺《もつ》れたようでしたが、芸者をさせて置けばこそこんな事にもなるのだと云うので、この六月、急にお俊を引かせる話になりました。お俊としてみれば、災難が却って仕合わせになったかも知れません。今じゃあ川向うの一つ目に囲われて気楽に暮らしているようです」
「お俊に薄あばたは無かったかね」
「あの人は土地でも容貌《きりょう》好しの方で、あばたなんぞはありませんよ」と、徳次は打ち消すように答えた。
 松吉はふたたび失望したように半七の顔を見た。

     四

「親分、どうしますね」と、三州屋を出ると松吉は訊いた。きょうももう八ツ(午後二時)過ぎで、寒い風が又吹き出して来た。
「強情なようだが、おれはまだ思い切れねえ」と、半七は考えながら云った。「殺されたのはお俊で、殺したのは万力だ」
「碁盤はお俊の家《うち》にあったのでしょうか」
「まあ、そうだろうね。伊勢屋は旧い
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