だなぞと云うと、猶さら世間体を気遣うので、伊勢屋の主人もどうしていいか途方に暮れて、まあ黙って成り行きを窺っていたのでしょう。こうなると、主人の由兵衛に科《とが》はないわけで、ひとまず自分の家《うち》へ下げてやりました」
「下手人はやはり万力ですね」
「万力は野州鹿沼在の者で、それから江戸を立ちのいて、故郷の叔父や兄に暇乞いをした上で、蓮行寺という菩提寺に参詣し、家代々の墓の前で切腹しました。人殺しの罪は逃《の》がれられないとは云いながら、年は若し、出世の見込みのある相撲を、こんなことで殺すのは可哀そうでした。
万力の叔父の甚右衛門は本人の遺言だと云うので、その書置を持って江戸へ出て、深川の伊勢屋へたずねて来ました。万力が甚右衛門に打ち明けたところによると、二十二日に本所の家へ碁盤を受け取りにゆくと、お俊はもう引っ越しの荷作りをしていたが、女中のお直の姿は見えない。お直さんはどうしたと訊くと、もう暇を出したと云う。お直さんがいては邪魔になるからだろうと、万力は皮肉らしく云うと、お俊はなんにも返事をしなかったそうです。その場は無事に碁盤を受け取って帰ったのですが、それから自分の家へいったん帰って、その碁盤を床の間に置いて、暫くじっと眺めているうちに、急にむらむらと殺気を生じて、お俊の首を碁盤の上へ乗せて見たくなったそうです」
「碁盤の猫が崇ったんですかね」
「崇ったのかどうか知りませんが、急に殺す気になったのだそうです。勿論、万力がお俊を狙っていたのはきょうに始まったことではないのです」と、老人は説明した。「お俊が旦那の眼を偸《ぬす》んで、小栗の次男銀之助を引き摺り込んでいることを、近所に住んでいるだけに万力はもう知っていました。お俊が駒形へ引っ越すと云い出したのも、万力に睨まれているのがうるさいからでした。万力は正直者ですから、お俊が旦那の眼を掠めて不埒を働いているのを、怪《け》しからぬ奴だと睨んでいました。殊にその不埒の相手が小栗の銀之助で、こいつの為に抱え屋敷をしくじっているのですから、万力に取っては仇《かたき》も同様、いよいよ我慢が出来ないのは無理もありません。
そこで、旦那の由兵衛にむかって、万力は内々注意したのですが、あくまでもお俊に迷っている由兵衛は取り合わない。そればかりでなく、この頃は万力を少しくうとんじるような気色《けしき》も見える。それも恐ら
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