って、天下の力士が拝領の刀を取られて、桟橋に両手をついて謝ったなぞとは、抱え屋敷の面目にかかわると云うので、万力はとうとう出入りを止められてしまいました。そうなると伊勢屋の旦那も、自分が花見に連れ出してこんなことが出来《しゅったい》したというので、今までよりも余計に万力の世話をしてやるようになったのです。伊勢屋は旧い店で、身上《しんしょう》もなかなかいいそうですから、その後楯《うしろだて》が付いていりゃあ万力も困ることは無いでしょうが、抱え屋敷をしくじっちゃあ仲間に対して幅が利かねえ。それを思うと、一概に羨ましいとばかりも云われません。当人は肚《はら》で泣いているかも知れませんよ」
「そうだろうな」と、半七も溜め息をついた。「そうして、その相手の二人侍《ににんざむれえ》は、何者だか判らねえのか」
「ひとりは本所の御旅所《おたびしょ》の近所に屋敷を持っている平井善九郎というお旗本ですが、連れの一人は判りません。刀を引ったくったのは平井さんでなく、連れのお武家の方でしたが、年頃は二十一、二で小粋な人柄でした。まあ、次三男の道楽者でしょうね」
「お俊はその平井という侍とも馴染なのか」
「別に深い馴染というでもありませんが、まんざら知らないお客でも無いそうです。なにしろ、そんな船に乗り合わせていたお俊も災難で、本人のした事じゃあありませんが、自然に伊勢屋の旦那の御機嫌を損じるような破目《はめ》になって、その当座はちっと縺《もつ》れたようでしたが、芸者をさせて置けばこそこんな事にもなるのだと云うので、この六月、急にお俊を引かせる話になりました。お俊としてみれば、災難が却って仕合わせになったかも知れません。今じゃあ川向うの一つ目に囲われて気楽に暮らしているようです」
「お俊に薄あばたは無かったかね」
「あの人は土地でも容貌《きりょう》好しの方で、あばたなんぞはありませんよ」と、徳次は打ち消すように答えた。
松吉はふたたび失望したように半七の顔を見た。
四
「親分、どうしますね」と、三州屋を出ると松吉は訊いた。きょうももう八ツ(午後二時)過ぎで、寒い風が又吹き出して来た。
「強情なようだが、おれはまだ思い切れねえ」と、半七は考えながら云った。「殺されたのはお俊で、殺したのは万力だ」
「碁盤はお俊の家《うち》にあったのでしょうか」
「まあ、そうだろうね。伊勢屋は旧い
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