勢屋の旦那は万力にたいへん力を入れて、本場所は勿論ですが、深川で花相撲のある時なんぞも、毎日見物に出かけて大騒ぎ。万力もいい旦那を持って仕合わせだと、みんなに羨まれていますよ」
「伊勢屋のほかに抱え屋敷はねえのか」
「十万石の抱え屋敷があったのですが、可哀そうにお出入りを止められてしまって、今じゃあ伊勢屋が第一の旦那場です。万力が抱え屋敷をしくじったのも、まあ伊勢屋の為ですから、伊勢屋も猶さら万力の世話をしてやらなけりゃあならない義理もあると云うわけで……」
 ことしの三月、伊勢屋の亭主由兵衛は万力を連れて三州屋へ来たが、花見どきではあり、天気はいいので、大抵の芸者はみな出払って、お馴染のお俊も家にいなかった。しかし前からの約束でもないので、由兵衛はそれをかれこれ云うほどの野暮《やぼ》でもなかった。ほかの芸者二人と万力とを連れて、屋根船を徳次に漕がせて大川をのぼった。向島から堤《どて》へあがって、今が花盛りの桜を一日見物して、日の暮れる頃に漕ぎ戻って来ると、あいにくに桟橋のきわには二、三艘の船が落ち合って、伊勢屋の船を着けることが出来ない。船頭同士が声を掛け合って、伊勢屋の一行は前の船の舳《とも》を渡って行くことになった。
 由兵衛と芸者ふたりは挨拶して先きに渡ったが、最後に出た万力甚五郎は、船のなかを横眼で視ただけで、なんの挨拶もせずに渡り過ぎようとした。その船には二人の侍と一人の芸者が乗っていたが、花見帰りであるから皆酔っていたらしく、侍のひとりは声をかけて、挨拶をして行けと云った。それでも万力は知らぬ顔をして行き過ぎて、今や桟橋へと足を踏みかけた途端に、ひとりの侍は衝《つ》と寄ってきて、万力の腰の刀を鞘ぐるみ引き抜いた。そうして、自分の船の船頭にむかって、早く出せと呶鳴った。
 呶鳴られて船頭は棹《さお》をとった。混み合っている中であるから、思うように棹を張ることは出来なかったが、それでも一間ほどは横に開いたので、桟橋に取り残された万力はあっ[#「あっ」に傍点]と驚いた。腰の物を取られたからである。
 武士は勿論、力士が腰の物を取られるのも、決して名誉のことではなかったが、更に万力をおどろかしたのは、その刀は十万石の抱え屋敷から拝領の品であった。それを失っては、屋敷へ出入りすることが出来なくなる。それを思うと、万力は顔の色を変えてうろたえた。あっ[#「あっ」に
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