半七捕物帳
地蔵は踊る
岡本綺堂
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)几董《きとう》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)小石川|茗荷谷《みょうがたに》
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(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「日+向」、第3水準1−85−25]
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一
ある時、半七老人をたずねると、老人は私に訊いた。
「あなたに伺ったら判るだろうと思うのですが、几董《きとう》という俳諧師はどんな人ですね」
時は日清戦争後で、ホトトギス一派その他の新俳句勃興の時代であたから、わたしもいささかその心得はある。几董を訊かれて、わたしはすぐに答えた。彼は蕪村《ぶそん》の高弟で、三代目夜半亭を継いだ知名の俳人であると説明すると、老人はうなずいた。
「そうですか。実はこのあいだ或る所へ行きましたら、そこへ書画屋が来ていて、几董の短冊というのを見せていました。わたくしは俳諧の事なぞはぼんくらで、いっさい判らないのですが、その短冊の句だけは覚えています」
「なんという句でした」
「ええと……、誰《た》が願《がん》ぞ地蔵縛りし藤の花……。そんな句がありますかえ」
「あります。たしかに几董の句で、井華《せいか》集にも出ています。おもしろい句ですね」
「わたくしのような素人にも面白いと思われました」と、老人はほほえんだ。「縛られ地蔵を詠んだ句でしょうが、俳諧だから風流に藤の花と云ったので、藤蔓で縛るなぞはめったに無い。みんな荒縄で幾重にも厳重に引っくくるのだから、地蔵さまも遣り切れません。なにかの願掛けをするものは、その地蔵さまを縛って置いて、願が叶えば縄を解くというわけですから、繁昌する地蔵さまは年百年じゅう縛られていなければなりません。それが仏の利生方便《りしょうほうべん》、まことに有難いところだと申します」
「どの地蔵さまを縛ってもいいんですか」
「いや、そうは行かない。むやみに地蔵さまを縛ったりしては罰《ばち》があたる。縛られる地蔵さまは『縛られ地蔵』に限っているのです。縛られ地蔵は諸国にあるようですが、江戸にも二、三カ所ありました。中でも、世間に知られていたのは小石川|茗荷谷《みょうがたに》の林泉寺で、林泉寺、深光寺、良念寺、徳雲寺と四軒の寺々が門をならべて小高い丘の上にありましたが、その林泉寺の門の外に地蔵堂がある。それを茗荷谷の縛られ地蔵といって、江戸時代には随分信仰する者がありました。地蔵さまの尊像は高さ三尺ばかりで、三間四方ぐらいのお堂のなかに納まっていましたから、雨かぜに晒されるようなことは無かったのですが、荒縄で年中ぐいぐいと引っくくられるせいでしょう、石像も自然に摺れ損じて、江戸末期の頃には地蔵さまのお顔もはっきりとは拝めないくらいに磨滅していました。林泉寺には門前|町《ちょう》もあって、ここらではちょっと繁昌の所でしたが……」
何事をか思い泛かべるように、半七老人は薄く眼を瞑《と》じた。それが老人の癖であると共に、なにかの追憶でもあることを私はよく知っていた。わたしは懐中の手帳をさぐり出して膝の上に置くと、その途端に老人は眼をあいた。
「あなたも気が早い。もう閻魔帳を取り出しましたな。あなたに出逢うと、こっちが縛られ地蔵になってしまいそうで。あはははは」
地蔵縛りし藤の花――几董の句のおかげで、きょうも私は一つの話を聞き出した。
「そのお話というのは、まあ斯《こ》うです」と、老人は語り始めた。「林泉寺は茗荷谷ですが、それから遠くない第六天|町《ちょう》に高源寺という浄土の寺がありました。高源寺か高厳寺か、ちょっと忘れてしまいましたが、まあ高源寺としてお話を致しましょう。これも可なりの寺でしたが、この寺の門前にも縛られ地蔵というものが出現しました。林泉寺に比べると、ずっと新らしいもので、なんでも安政の大地震後に出来たものだそうです」
「そういう地蔵を新規に拵えたんですか」
「まあ、拵えたと云えば云うのですが……。高源寺の住職の夢に地蔵尊があらわれて、我れは寺内の墓地の隅にあって、土中に埋めらるること二百余年、今や結縁《けちえん》の時節到来して人間に出現することとなった。我れを縛って祈願するものは、諸願成就うたがい無からん。夜が明ければ、墓地の北の隅にある大銀杏の根を掘ってみよ、云々《うんぬん》というお告げがあったので、その翌朝すぐに掘ってみると、果たして大銀杏の下から三尺あまりの石地蔵があらわれ出たというわけで……。嘘か本当か、昔はしばしばこんな話がありました。そこで、高源寺でもその地蔵さまを門前に祀《まつ》って、やはり小さいお堂をこしらえて、林泉寺同様の縛られ地蔵を拝ませる事になりました。場所が近いだけに、なんとなく競争の形です。
いつの代でもそうかも知れませんが、昔は神仏に流行《はや》り廃《すた》りがありまして、はやり神はたいへんに繁昌するが、やがて廃れる。そこで、流行らず廃らずが本当の神仏だなぞと云ったものですが、新らしきを好むが人情とみえて、新らしく出来た神さまや仏さまは一時繁昌するのが習いで、高源寺の縛られ地蔵も当座はたいそう繁昌、お線香やお賽銭がおびただしいものであったと云います。どうで縛るならば、繁昌の地蔵さまを縛った方が御利益《ごりやく》があるだろうと云うわけでしょう。
その御利益があったか無かったか知りませんが、前にも申す通り、流行りものはすたれる道理で、一時繁昌の縛られ地蔵も三、四年の後にはだんだんに寂れて、参詣の足はふたたび本家の林泉寺にむかうようになりました。これからのお話は安政六年七月以後の事と御承知ください。去年の安政五年は例の大《おお》コロリで、江戸じゅうは火の消えたような有様でしたから、ことしの夏は再びそんな事の無いようにと、誰も彼もびくびくしていると、六月の末頃からコロリのような病人が、又ぼつぼつとあらわれて来ました。もちろん去年ほどの大流行ではありませんが、吐くやら瀉《もど》すやらで死ぬ者が相当にあるので、世間がおだやかではありません。なにしろ去年の大コロリにおびえ切っているので、寄ればさわればその噂でした。又その最中に不思議な噂が立ちました。高源寺の縛られ地蔵が踊るという……」
「地蔵が踊る……」
「笑っちゃいけない。そこが古今の人情の相違です。地蔵が踊るといえば、あなたはすぐに笑うけれども、昔の人はまじめに不思議がったものです。たとい昔でも、料簡《りょうけん》のある人達はあなたと同様に笑ったでしょうが、世間一般の町人職人はまじめに不思議がって、その噂がそれからそれへと広がりました。もとより石の地蔵さまですから、普通の人間のように、コリャコリャと手を叩いて踊り出すのじゃあない。右へ寄ったり、左へ寄ったり、前へ屈《かが》んだり、後へ反《そ》ったり、前後左右にがたがた揺れるのが、踊っているように見えると云うわけです。昼間から踊るのではなく、日が暮れる頃から踊りはじめる。いくら七月でも、地蔵さままでが盆踊りじゃああるまいと思っていると、誰が云い出したのか、又こんな噂が立ちました。この踊りを見たものは、今年のコロリに執り着かれないと云うのです」
「地蔵は始終踊っているんですか」と、わたしは訊いた。
「日が暮れてから踊り出すのですが、夜なかまで休み無しに踊っているのじゃあない。時々に踊って又やめる。それを拝もうとするには、どうしても気長に半※[#「日+向」、第3水準1−85−25]《はんとき》ぐらいは待っていなければならない。それには丁度いい時候ですから、夕涼みながらに山の手は勿論、下町からも続々参詣に来る。そのなかには面白半分の弥次馬もありましたろうが、コロリ除《よ》けのおまじないのように心得て、わざわざ拝みに来る者も多い。そんなわけで、高源寺の縛られ地蔵はまた繁昌しました。
それが寺社方の耳にはいって、役人が念のため出張すると、なるほど跡方の無いことでもなく、地蔵は時々に踊るのです。そこで役人も一旦は無事に引き揚げたのですが、妖言妄説の取締りを厳重にする時節柄、こういうことを黙許していて善いか悪いか、次第によっては地蔵堂の扉を閉じさせて、参詣を一時さし止めなければなるまいという意見も出ましたが、それがいずれとも決着しないうちに、七月も過ぎて八月になると、その十二日から十三日にかけて大風雨《おおあらし》、七月の二十五日にも風雨がありましたが、今度の風雨はいっそう強い方で、屋根をめくられたのも、塀を倒されたのもあり、近在には水の出た所もありました。
その風雨も十三日の夕方から止んで、十四日はからりとした快晴、陽気もめっきりと涼しくなりました。日が暮れると例の如く、高源寺には大勢の参詣人が詰めかけて、お線香を供えるのもあり、お賽銭をあげるのもあり、いずれも念仏合掌して、今か今かと待ち受けていましたが、どういうわけか、今夜に限って地蔵さまは身動きもしない。待てど暮らせど、いっこうに踊り出さないのです」
「不思議ですね」
「不思議です。みんなも不思議だと云いながら、四ツ(午後十時)頃までは待っていたのですが、地蔵さまは冷たい顔をしてびくとも身動きもしないので、とうとう根負けがしてぞろぞろと引き揚げました。八月十四日で、今夜はいい月でした。明くる晩は月見ですから、参詣人も少ない。それから、十六、十七、十八、十九の四日間、地蔵さまはちっとも踊らないので、みんな的《あて》がはずれました。
陽気も涼しくなって、コロリもおいおい下火《したび》になったので、地蔵さまも踊らなくなったのだと云い触らす者もありましたが、ともかくも地蔵さまはもう踊らないという噂が立ったので、参詣人もぱったりと絶えてしまいました。すると、ここに又ひとつの事件が出来《しゅったい》しました」
「どんな事件が……。やはり高源寺に起こったんですか」
「そうですよ」と、老人はうなずいた。「八月二十四日の朝、小石川|御箪笥町《おたんすまち》に屋敷を持っている、今井善吉郎という小旗本の中間《ちゅうげん》武助が何かの用で七ツ半(午後五時)頃に、この高源寺門前を通りながら、何心なく地蔵堂をのぞくと、薄暗いなかに人らしい姿が見える。近寄ってよく見ると、ひとりの女が縛られている。女は荒縄で厳重に縛られているのです」
「縛られ地蔵に女が縛られている……。面白いですね」
「面白いどころじゃない。女はもう死んでいるらしいので、武助もおどろきました。しかし自分は先きを急ぐので、そんな事にかかり合ってはいられない。丁度に表の戸を明けかかった近所の酒屋の若い者にそれを教えて、自分はそこを立ち去りました。さあ大騒ぎになって、近所の人達が駈けあつまると、女は十九か二十歳《はたち》ぐらい、色白の小綺麗な娘ですが、見るからに野暮な田舎娘のこしらえで、引っ詰めに結った銀杏返《いちょうがえ》しがむごたらしく頽《くず》れかかっていました。まったくあなたの云う通り、縛られ地蔵に女が縛られていて、しかもそれが死んでいると云うのですから、普通の変死以上にみんなが騒ぎ立てるのも無理はありませんでした」
二
寺門前の出来事であるから、高源寺から寺社方へ訴え出て、係り役人の検視を受けたのは云うまでもない。女は縊《くび》られて死んだのである。その死体は石地蔵をうしろにして、両足を前に投げ出し、あたかも地蔵を背負ったような形で、荒縄を幾重にも捲き付けてあった。その縄が彼女の首にもかかっていたが、それで絞め殺されたのではなく、すでに絞め殺した死体を運んで来て、縛られ地蔵に縛り付けたものであることは、検視の役人にも推定された。
この場合、女の身もと詮議が第一であるが、高源寺ではそんな女をいっさい知らないと答えた。近所の者もそれらしい女の姿を見かけた事はないと申し立てた。その風俗をみても、江戸の者でないらしい事は判っていた。女は木綿の巾着《きんちゃく》にちっとばかり小銭《こぜに》を入れているだけで、ほかに証拠となるような品
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