まして迂闊にしゃべることも出来ないので、二人は無言の行《ぎょう》に入ったように、桜の蔭にしゃがんで黙っていた。
 夜明かしを覚悟していた彼等は、幸いに早く救われた。その夜もまだ四ツ(午後十時)を過ぎないうち、一つの黒い影が夜叉神堂の前にあらわれた。自分の顔を見られぬ用心であろう。その曲者は奉納の鬼の面をかぶっていた。まだ其の上にも用心して、彼は手拭を頬かむりにして其の頭を包んでいたが、それが坊主頭であるらしいことは、兼松らに早くも覚られた。
 曲者は面の箱をひき寄せて、なにか一心にさぐっているらしい。その隙をみて、二人は不意に飛びかかると、彼はもろくも其の場に捻じ伏せられた。手拭を取られ、鬼の面を剥《は》がれて、その正体をあらわした彼は、二十五、六歳の青白い僧であった。
「この坊主め、生けッぷてえ奴だ」と、兼松は先ず叱りつけた。「内心如夜叉《ないしんにょやしゃ》どころか、夜叉神の面をかぶって悪事を働きやがる。貴様は一体どこの納所《なっしょ》坊主だ。素直に云え」
 普通の出家の姿であったならば、なんとか云い訳もあったかも知れないが、頬かむりをして、鬼の面をかぶっていたのでは、どうにも弁解の法がない。彼も一も二もなく恐れ入ってしまった。
 彼はこの近所の万隆寺の役僧教重であった。諸仏開帳の例として、開帳中は数十人の僧侶が、日々参列して読経《どきょう》鉦鼓《しょうこ》を勤めなければならない。しかも本寺から多勢《たぜい》の僧侶を送って来ることは、道中の経費その他に多額の物入りを要するので、本寺の僧はその一部に過ぎず、他は近所の同派の寺々から臨時に雇い入れることになっている。万隆寺の僧も今度の開帳に日々参列していたが、教重もその一人で、破戒僧の彼は奉納の兜に眼を着けたのである。
 彼も別に悪僧というのでは無かったが、いわゆる女犯《にょぼん》の破戒僧で、長袖《ながそで》の医者に化けて品川通いに現《うつつ》をぬかしていた。誰も考えることであるが、あの兜の小判があれば当分は豪遊をつづけられる。その妄念が増長して、彼は明け暮れにかの兜を睨んでいるうちに、寺社方の指図として兜の金銀は取りのけられることになった。それが彼の悪心をあおる結果となって、この機を失っては再び手に入る時節がないと、教重はゆうべ思い切って悪事を断行したのであった。
 他寺の僧ではあるが、日々この寺に詰めているので、彼は寺男の弥兵衛が奉納小屋を見まわる時刻を知っていた。弥兵衛が暁《あ》け七ツの見まわりを済ませた後、彼は鑿《のみ》と槌《つち》とをたずさえて小屋の内へ忍び込んだ。金や銀は巧みに組み合わせてあるので、定めて面倒であろうと思いのほか、一枚をこじ放すと他はそれからそれへと容易に剥がれた。元来は小判を盗むのが目的であったが、仕事が案外に楽であったので、彼は更に二朱銀五、六個を剥ぎ取った。
 そのときにも彼は自分の顔を隠すために、夜叉神堂の古い面をかぶっていた。

     四

「どうです、親分。これだけ判ったら面倒はねえ。あとは門番所へ連れて入って、ゆっくり調べようじゃあありませんか」と、勘太は云った。
 彼は宵からの張り番に少しく疲れたらしかった。
「じゃあ、ひと休みして調べるか」
 二人は教重を引っ立てて門番所へ行った。門番の老爺《おやじ》が汲んで出す番茶に喉を湿《しめ》らせて、兼松は再び詮議にかかった。
「お前はゆうべ此の寺中《じちゅう》に泊まったのか」
「いいえ、自分の寺へ帰りました」と、教重は答えた。「けさの七ツ過ぎに寺をぬけ出して、ここへ忍んで来ました。夜なかに往来をあるいていると、人に怪しまれる、暁け方ならば何とか云いわけが出来ると思ったからです」
「盗んだ小判をなぜすぐに持って帰らなかったのだ」
「小判と二朱銀を袂に忍ばせて、奉納小屋を出ますと、まだ誰も起きていないので、あたりはひっそりしていました。わたくしは安心して夜叉神堂の前まで来まして、かぶっている鬼の面を取ろうとしますと、この頃の生暖かい陽気で顔も首筋も汗びっしょりになっています。その汗が張子の面に滲《にじ》んで、わたくしの顔にべったりと貼り着いたようになって、容易に取れないのでございます。わたくしは昔の肉付き面を思い出して、俄かにぞっ[#「ぞっ」に傍点]としました。嫁を嚇かしてさえも、面が離れない例もある。まして仏前の奉納物を毀して金銀を奪い取っては、神仏の咎めも恐ろしい。あるいは夜叉神のお怒りで、この鬼の面がとれなくなるのでは無いかと思うと、わたくしはいよいよ総身《そうみ》にひや汗が流れました」
 腹からの悪僧でもない彼は、その当時の恐怖を思い泛かべたように声をふるわせた。
「多寡が胡粉《ごふん》を塗った張子の面ですから、力まかせに引きめくれば造作《ぞうさ》もなしに取れそうなものですが、それが
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