「親分、いけねえ。番屋へ連れて行って、どうするのです」
「どうするものか。都合によっちゃあ帰さねえかも知れねえ」
「わっしは悪い事をしやあしません。これでもお上の御用を勤めたこともあるので……」
「御用を勤めたというのは、石町の金蔵を指したことを云うのか」と、半七はまた笑った。「それはおれも知っているが、今あのさつきへ行って何を云ったのだ。おれはみんな知っているぞ」
「恐れ入りました」
「恐れ入ったら、もう一度ここで正直に云え。さもなけりゃ番屋へ連れて行って云わせるぞ」
多寡が近所の矢場や小料理屋を忌《いや》がらせて、幾らかの飲代《のみしろ》をせびっているに過ぎない千次は、もとより度胸のある奴ではなかった。半七に嚇されて、彼は素直に白状した。彼も金蔵の破牢におびやかされた一人で、万一金蔵が自分の密告をさとって、その仕返しに来られては大変であると思って、ひとまず品川辺の友人のところへ身を隠したが、忽ち煙草銭にも困るような始末になったので、きょうはこっそりと神明へ帰って来て、馴染の家へ無心に廻ることにした。そのなかでも、このさつきは金蔵の一件に関係があるので、第一にここを目ざして来ると、帳場の女房に手強《てごわ》くことわられた。彼も癪にさわって、そんなら俺にも料簡がある、なにもかも金蔵にぶちまけて、ここの家へ仕返しによこすからそう思えと、嚇し文句を残して出て来た。
おそらく女房もおどろいて、あとから呼び戻すだろうと思いのほか、相手は平気ですましているらしく、自分が却って半七に捉まったのである。よくよく運の悪い彼は、ただ恐れ入って謝《あやま》るのほかはなかった。
「そこで、おめえは金蔵の居どころを知っているのか」と、半七は疑うように訊いた。
「実は、その……」と、千次は再び頭をかいた。金蔵を仕返しによこすなどと云ったのは当座のでたらめで、彼も実は金蔵のありかを知らないと云った。
「三甚が身延まいりに行ったというのは、本当か」と、半七はまた訊いた。
「いや、嘘だと思います」と、千次はすぐに答えた。「わっしも今朝から訊いて歩いたのですが、ここらの講中で身延へ行った者はありません。三甚も身延へ行ったなんて、どっかに隠れているのだろうと思います」
「なぜ隠れているのだ」
「親分の前ですが、二代目の三甚は気の弱い方ですから、金蔵が出て来たのを聞いて、まあ差しあたりは姿を隠したのだろうと思います。さつきの女房がひどく気を揉んでいたそうですから、その入れ知恵でどっかに隠れたのでしょう。その証拠には、さつきの娘も此の頃は家《うち》にいねえと云うことです」
「馬鹿を云え」と、半七はわざと叱り付けた。「いくら年が若くっても、三甚はお上の御用聞きだ。牢ぬけを怖がって、逃げ隠れをする奴があるものか」
「へえ」と、千次はよんどころなしに口をつぐんだ。
「世間へ行って、そんなでたらめを吹聴《ふいちょう》すると承知しねえぞ。おれたちの顔にもかかわることだ」
「へえ」と、千次はいよいよ恐れ入った。
「だが、千次」と、半七は声をやわらげた。「三甚のことはともかくも、牢抜けの金蔵は人相書のまわったお尋ね者だ。おれもこれから踏み込んで探索をしなけりゃあならねえ。何か聞き込んだら教えてくれ。そこらで一杯飲ませるのだが、おれは急ぎの用があるから、まあこれで勘弁して貰おう。骨折り賃は別に出すよ」
さしあたり二|歩《ぶ》の金を貰って、千次はよろこんだ。彼は「済みません、済みません」を繰り返して、これからひと働きすると約束して別れた。骨折り賃を貰うばかりでなく、半七らの用を勤めて置けば、後日《ごにち》に何かの便利がある。千次はこれを御縁に、何分お引き立てを願いますなどと云っていた。
千次に別れて、半七はさつきの門口《かどぐち》へ引っ返すと、女房のお力は暖簾のあいだから不安らしく表を覗いていた。
四
表向きは千次を叱ったものの、三甚の身延まいりは少し怪しいと半七も思った。さつきへ行ってお力を詮議すると、果たして彼女の指尺《さしがね》で、甚五郎は姿を隠したのである。役目の手前、そんなことは出来ないと、甚五郎も一旦は断わったが、おふくろには勧められ、娘には口説かれて、気の弱い彼は金蔵一件の片付くまで姿を隠すことになったのである。それを聞いて、半七は舌打ちをした。
「困る事をさせるじゃあねえか。そんなことが八丁堀の旦那衆に知れてみろ。三甚は株を摺ってしまうぜ。子分たちも揃っていながら、何のことだ。そうして、どこへ行っているのだ」
「実は、高田馬場の近所へ……」と、お力は答えた。「白井屋という小料理屋にわたくしの妹が縁付いて居りますので、一時そこへ頼んで置きました」
「娘も一緒かえ」
「はい」
「御用聞きが女をつれて逃げ隠れをしている。飛んだ色男だ」と、半七はまた舌打ちした。「そんなことが長引いていると、三甚の為にならねえ。早く埒を明けてしまいてえものだ」
「何分よろしく願います」
ここで女房を叱ったところで、どうにもならないので、半七は怱々にここを出た。それから京橋へ用達しに廻って、七ツ(午後四時)頃に神田の家へ帰ると、やがて善八が来て、牢抜けが又ひとり挙げられたと報告した。それは矢場村無宿の勝五郎で、小石川蓮華坂の裏長屋に忍んでいたのである。これで惣吉、松之助、勝五郎の三人は召捕られ、残るは兼吉、藤吉、金蔵の三人である。兼吉と藤吉はともあれ、金蔵のありかが知れない限りは、半七も肩抜けにならないように思われた。『正雪の絵馬』も埒が明かない。『吉良の脇指』も片付かない。そこへ又この一件が湧いて来たので、物に馴れている半七も少しうっとうしくなって来た。他人《ひと》と手柄を争って金蔵を召捕るにも及ばないが、それが長引いて三甚の迷惑をかもすのも可哀そうである。科人の仕返しを恐れて、女と一緒に逃げ隠れるとは、江戸の御用聞きの面汚《つらよご》しであると、頭から叱ってしまえばそれ迄であるが、先代の世話になった義理を思えば、なんとか彼を救ってやらなければならない。まず甚五郎に理解を加えて、芝口の自宅へ戻るように勧めなければならない。
こう思って、半七はその翌日、高田馬場へ出向いた。きょうは朝から晴れて暑くなったが、ここらに多い植木屋の庭が見渡すかぎり青葉に埋められているのを、半七はこころよく眺めた。馬場に近いところには、小料理屋や掛茶屋がある。流れの早い小川を前にして、入口に小さい藤棚を吊ってあるのが白井屋と知られたので、半七は構わずに店にはいると、若い女中が奥の小座敷へ案内した。
「おかみさんはいるかえ」
「おかみさんは鬼子母神《きしもじん》さまへお詣りに行きました」
それでは御亭主を呼んでくれと云うと、三十七、八の男が出て来た。
「いらっしゃいまし。俄か天気でお暑くなりました」と、彼は丁寧に挨拶した。
「早速だが、わたしは神明前のさつきから教えられて来たのだが……」
「はい」と、亭主は半七の顔をじっと視た。
「こっちにさつきの娘のお浜さんが来ているだろうね」
「いいえ」
「芝口の三甚の若親分が来ているだろうね」
「いいえ」
「隠しちゃあいけねえ。神明前のお力さんから頼まれて、確かにここの家《うち》にあずかってある筈だが……。隠さねえで、教えておくんなせえ」
「おまえさんのお名前は……」
「わたしは神田三河町の半七という者だ」
「折角でございますが、手前方には誰も預かって居りませんので」
「ここは白井屋だろう」
「左様でございます」
「さつきの親類だろう」
「左様でございます」
「娘も三甚もここへは来ていねえと云うのだね」
「はい」
「いけねえな」と、半七も焦《じ》れ出した。「わたしも三甚と同商売で、お上の御用を聞いている者だ。三甚に少し話したい事があって来たのだから、早く逢わせてくんねえ」
亭主はまだ躊躇しているらしいので、半七は畳みかけて云った。
「おれが斯うして身分を明かしても、おめえは飽くまでも隠し立てをするのか。おれもここまでわざわざ踏み出して来た以上、おめえ達に化かされて素直に帰るのじゃねえ。家探しをしても三甚に逢って行くから、そう思ってくれ」
半七の声が少し高くなった時、女中のひとりが来て、亭主を縁側へ呼び出した。ちょっと御免くださいと会釈《えしゃく》して、亭主は怱々に出て行ったが、やがて女中と一緒に帳場の方へ立ち去った。
それと入れ違いに、ほかの女中が酒肴の膳を運んで来た。
「旦那は唯今すぐに参ります」
彼女も逃げるように立ち去った。亭主も一旦はシラを切ったものの、やがて三甚を連れて来るのであろうと想像しながら、手酌でぼんやり飲んでいると、そこらの森では早い蝉の声がきこえた。
それから小半時を過ぎたかと思われるのに、亭主は再び顔を見せなかった。女中も寄り付かなかった。一本の徳利はとうに空《から》になってしまったが、誰も換えに来る者もなかった。半七はたまりかねて手を鳴らしたが、誰も返事をしなかった。人質《ひとじち》に取られたような形で、半七はただ詰まらなく坐っていた。
出入りの多い客商売であるから、人目《ひとめ》に付くのをおそれて、娘と三甚をほかの家にかくまってあるのかも知れないと、半七は考えた。それを呼び出して来るので、少し暇取るのであろうから、野暮《やぼ》に催促するのも好くないと諦めて、彼は根《こん》よく待っているうちに、庭の池で鯉の跳ねる音がきこえた。ここらの習いで、かなりに広い庭には池を掘って、汀《みぎわ》には菖蒲《あやめ》などが栽《う》えてあった。青い芒《すすき》も相当に伸びていた。
退屈凌ぎに庭下駄を突っかけて、半七は池のほとりに降り立った。大きい柳に倚《よ》りかかって、何心なく水の上をながめている時、誰か抜き足をして忍んで来るような気配を感じたので、油断のない彼はすぐに見かえると、人の背ほどに高い躑躅《つつじ》のかげから、一人の男が不意に飛んで出て半七の腕を捉えた。
「御用だ。神妙にしろ」
半七はおどろいた。
「おい、いけねえ。人違げえだ」
云ううちに又ひとりが現われて、これも半七に組み付いた。
「違うよ、違うよ」と、半七はまた呶鳴った。
「なにを云やあがる。御用だ、御用だ」
二人は無二無三に半七を捩《ね》じ伏せようとするのである。もう云い訳をしている暇もないので、半七は迷惑ながら相手になるのほかはなかった。それでも続けてまた呶鳴った。
「おい、違うよ、違うよ。おれは半七だ、三河町の半七だ」
「ふざけるな。人相書がちゃんと廻っているのだ」と、二人は承知しなかった。
ひとりに頭髻《たぶさ》をつかまれ、一人に袖をつかまれて、半七もさんざんの体《てい》になった。おとなしく縛られた方が無事であると知りながら、一杯機嫌の半七は癪にさわって相手をなぐり付けた。手向いをする以上は、相手はいよいよ容赦しない。一人は半七のふところへはいって、うしろの柳の木へぐいぐいと押し付けた。一人は早縄を半七の手首にかけた。
「馬鹿野郎、明きめくら……。人違げえを知らねえか」
いくら呶鳴っても、相手は肯《き》かない。店の方からも加勢として、亭主や料理番や、近所の男らしいのが五、六人駈け集まって来た。こうなっては所詮かなわない。三河町の半七、多勢に押さえ付けられて、とうとうお縄を頂戴した。
「ざまあ見やがれ」と、男のひとりは勝ち誇るように云った。
「おれたちに汗を掻かせやがって……。この野郎、引っぱたくから、そう思え」と、他のひとりも罵った。
引っぱたかれては堪らないので、半七も素直にあやまった。
「まあ、堪忍してくれ。神妙にするよ」
「そんなら、なぜ始めから神妙にしねえ。どうで首のねえ奴だ。生きているうちに、ちっと痛てえ思いをして置け」と、一人がまた罵った。
「首のねえ奴……。一体おれを誰だと思っているのだ」
「知れたことだ。石町無宿の金蔵よ」
半七は呆気《あっけ》に取られたが、やがてにやにやと笑い出した。
五
半七を縛ったのは、ここらを縄張りにしている戸塚の市蔵の子分らであった。神田と戸塚と距《はな》れていても、
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