詣りがまだ盛んに行なわれて、新聞の号外売りのように鈴を鳴らしながら、夜の町を駈けてゆく者にしばしば出逢うのであった。
 その鈴の音を聴きながら、老人はまだ笑っていた。すこし焦《じ》れったくなって、わたしの方から催促するように訊いた。
「そこで、そのおかしい話というのは、どんな一件ですか」
「つまり、物が逆《さか》さまになったので……」と、老人は又笑った。「石が流れりゃ木《こ》の葉が沈むと云うが、まあ、そんなお話ですよ。泥坊をつかまえる岡っ引が泥坊に追っかけられたのだからおかしい。泥坊が追っかける、岡っ引が逃げまわる。どう考えても、物が逆さまでしょう。そうなると、すべてのことが又いろいろに間違って来るものです。
 その起こりは安政元年四月二十三日、夜の五ツ(午後八時)少し前の出来事で、日本橋|伝馬町《てんまちょう》の牢内で科人《とがにん》同士が喧嘩をはじめて、大きい声で呶鳴るやら、殴り合いをするやら大騒ぎ。牢屋の鍵番の役人二人が駈けつけて、牢の外から鎮まれ鎮まれと声をかけたが、内ではなかなか鎮まらない。喧嘩はいよいよ大きくなって、この野郎生かしちゃあ置かねえぞと呶鳴る。もう捨てては置かれ
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