えで、教えておくんなせえ」
「おまえさんのお名前は……」
「わたしは神田三河町の半七という者だ」
「折角でございますが、手前方には誰も預かって居りませんので」
「ここは白井屋だろう」
「左様でございます」
「さつきの親類だろう」
「左様でございます」
「娘も三甚もここへは来ていねえと云うのだね」
「はい」
「いけねえな」と、半七も焦《じ》れ出した。「わたしも三甚と同商売で、お上の御用を聞いている者だ。三甚に少し話したい事があって来たのだから、早く逢わせてくんねえ」
 亭主はまだ躊躇しているらしいので、半七は畳みかけて云った。
「おれが斯うして身分を明かしても、おめえは飽くまでも隠し立てをするのか。おれもここまでわざわざ踏み出して来た以上、おめえ達に化かされて素直に帰るのじゃねえ。家探しをしても三甚に逢って行くから、そう思ってくれ」
 半七の声が少し高くなった時、女中のひとりが来て、亭主を縁側へ呼び出した。ちょっと御免くださいと会釈《えしゃく》して、亭主は怱々に出て行ったが、やがて女中と一緒に帳場の方へ立ち去った。
 それと入れ違いに、ほかの女中が酒肴の膳を運んで来た。
「旦那は唯今すぐに参ります」
 彼女も逃げるように立ち去った。亭主も一旦はシラを切ったものの、やがて三甚を連れて来るのであろうと想像しながら、手酌でぼんやり飲んでいると、そこらの森では早い蝉の声がきこえた。
 それから小半時を過ぎたかと思われるのに、亭主は再び顔を見せなかった。女中も寄り付かなかった。一本の徳利はとうに空《から》になってしまったが、誰も換えに来る者もなかった。半七はたまりかねて手を鳴らしたが、誰も返事をしなかった。人質《ひとじち》に取られたような形で、半七はただ詰まらなく坐っていた。
 出入りの多い客商売であるから、人目《ひとめ》に付くのをおそれて、娘と三甚をほかの家にかくまってあるのかも知れないと、半七は考えた。それを呼び出して来るので、少し暇取るのであろうから、野暮《やぼ》に催促するのも好くないと諦めて、彼は根《こん》よく待っているうちに、庭の池で鯉の跳ねる音がきこえた。ここらの習いで、かなりに広い庭には池を掘って、汀《みぎわ》には菖蒲《あやめ》などが栽《う》えてあった。青い芒《すすき》も相当に伸びていた。
 退屈凌ぎに庭下駄を突っかけて、半七は池のほとりに降り立った。大きい柳に倚
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