から身許その他の詮議をしようとすると、男はなかなか動かない。東照宮を笠に着て、なんでも天下を渡せと強情に云い張っているので、役人たちも持て余しました。
場所が場所ですから、こんな人間をいつまで捨てて置くわけには行きません。宥《なだ》めても賺《すか》しても肯《き》かない以上、いくら気違いでも、東照宮のお使でも、穏便に取り扱っていては果てしが無い。二人の役人が両手を取って引き立てようとすると、そいつは力が強くて自由にならない。とうとう大勢が駈け集まって暴《あば》れる奴を押さえ付けて縄をかけてしまいました。まったく斯うするよりほかはありません。本人は口を結んでなんにも云いませんが、その笠の裏に武州川越次郎兵衛と書いてありました。
してみると、川越藩の領分内の百姓に相違あるまいというので、早速にその屋敷へ通知して、次郎兵衛を引き取らせる事になりました。昔はどうだったか知りませんが、幕末になっては相手が乱心者と判っていれば、余りむずかしい詮議もありませんでした。川越の屋敷でも迷惑に思ったでしょうが、武州川越と笠に書いてあるのが証拠で、自分の領内の者を引き取らないと云うわけには行きません。殊に
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