から身許その他の詮議をしようとすると、男はなかなか動かない。東照宮を笠に着て、なんでも天下を渡せと強情に云い張っているので、役人たちも持て余しました。
 場所が場所ですから、こんな人間をいつまで捨てて置くわけには行きません。宥《なだ》めても賺《すか》しても肯《き》かない以上、いくら気違いでも、東照宮のお使でも、穏便に取り扱っていては果てしが無い。二人の役人が両手を取って引き立てようとすると、そいつは力が強くて自由にならない。とうとう大勢が駈け集まって暴《あば》れる奴を押さえ付けて縄をかけてしまいました。まったく斯うするよりほかはありません。本人は口を結んでなんにも云いませんが、その笠の裏に武州川越次郎兵衛と書いてありました。
 してみると、川越藩の領分内の百姓に相違あるまいというので、早速にその屋敷へ通知して、次郎兵衛を引き取らせる事になりました。昔はどうだったか知りませんが、幕末になっては相手が乱心者と判っていれば、余りむずかしい詮議もありませんでした。川越の屋敷でも迷惑に思ったでしょうが、武州川越と笠に書いてあるのが証拠で、自分の領内の者を引き取らないと云うわけには行きません。殊にそれが御城内を騒がしたのですから、恐縮して連れ帰ることになりました。
 そこで、第二の問題は、その次郎兵衛がどうして御玄関先きまで安々と通りぬけて来たかということで、途中の番人も当然その責任を免かれない筈です。そうなると、ここに大勢の怪我人ができる。それも宜しくないと云うので、かの次郎兵衛は天から落ちて来たという事になりました。いや、笑っちゃあいけない。昔の人はなかなか巧いことを考えたものです。つまり彼《か》の次郎兵衛は天狗に攫《さら》われて、川越から江戸まで宙を飛んで来て、お城のなかへ落とされたと云うわけです。こうなれば、誰にも落ち度は無い。天狗を相手に詮議も出来ないから、所詮はうやむやに済んでしまいました。
 そうすると、今度は川越の屋敷から本人を突き戻すと云って来ました。成程その笠には武州川越次郎兵衛と書いてあるが、屋敷へ連れ帰って調べてみると、彼が所持する臍緒書《ほぞのおがき》には野州宇都宮在、粂蔵の長男粂次郎とある。それが本当だと思われるから、当屋敷には係り合いの無い者であると云うのです。そう云えば其の通りで、手に持っていた笠を証拠にするか、肌に着けている臍緒書を証拠にするか
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